吉野 裕之


そら豆をかみつぶすとき母はイランの神の顔する

高瀬一誌『レセプション』(1989年)

 

みのりゆく蜜柑の山にかこまれて海はしづかな藍に凪ぎをり

地に消ゆる雪のしろさにおもふ時あなたは遠い人となりけり

夕陽のなかの点景となり癒すべき傷跡をもつ人もけものも

シェリー酒がさそひし浅きねむりあり海がこはれし夢にて終る

ぼうぜんとすぎゆくもののかたちにて車輌は鉄の音をひびかす

 

これらが高瀬一誌の作品だと知ったとき、私はしみじみとした気持ちに包まれた。『レセプション』で高瀬と出会った私にとって、確かにギャップはあったが、違和感はなかった。『高瀬一誌全歌集』(2005年)に収められた「初期歌篇」657首のなかの作品たちである。対象への向かい方やその切り取り方。素材やことばの選び方。瑞々しいそれらに支えられた抒情の質に、深く感動したのだった。

 

ワープロからアアアの文字つづけばふたりして森閑とせり

最近はどうもどうもと樹木まで首の上げ下げはじめたり

長寿なる顔がいんげんを食うその次にいちじくを食う

豆腐一丁を腹に収めし伯父がはげしく屈伸運動をなす

手から夕方が来るとは思わぬが手をみてしまう

 

『レセプション』から引いた。『レセプション』は、「うどん屋の饂飩の文字が混沌の文字になるまでを酔う」「よく手をつかう天気予報の男から雪は降りはじめたり」「梅干にそれぞれ顔ある顔あることにぼうぜんといる」といった作品を収める『喝采』(1982年)に続く2冊目の歌集。『喝采』は自身の文体を得た一冊だが、『レセプション』では、向こうから来るものを待つのではなく、狙いを定めてこちらからいく、という構えを獲得したように思う。狙いを定めることによって受け切る、ということかもしれない。韻律もシャープだ。

 

そら豆をかみつぶすとき母はイランの神の顔する

 

かっこいい一首だと思う。5・7・7・7、つまり5・7・0・7・7という、三句が空(くう)の構造の作品。中心が空(くう)なのだ。

この一首の鑑賞には、イランの地理や歴史、文化、宗教などの知識は不要だ。誰でも知ってはいるが、必ずしもよく知っているわけではない、イランやイランの神からイメージされる像だけを思えばいい。普通の人が普通にもっているイメージだけで鑑賞する。それでも、いや、それだからこそ像は共有される。欠落した三句に、読者は躓く。躓きは、飛躍を生む。空(くう)の力によって、母が神になり、26音のことばがかっこいい一首になる。

短歌は多様である。多様なひとつひとつの試みの総体が、短歌の豊かさである。高瀬は、誰もがらしいと思う文体を自分のものにしたが、それを誇示することなく、謙虚な試みを実践していく。

瑞々しさとは、つまりその実践のありようのことである。

 

(高瀬一誌の「高」の表記は『レセプション』におけるそれにしたがった。)