魚村 晋太郎


下山する日は近づけり立ったまま齝(にれが)む牛の目はふかみどり

池本一郎『草立』(2008年)

牛は家畜種が野生種を圧倒的する数少ない動物種のひとつ。
人とのつきあいの歴史は古く、古代文明では豊穣の象徴とされ、とくに雌牛はその乳によって母神的な意味をあたえられた。
英語で「牛」をさすcattleはラテン語で「動産」をさすcapitaleから来ているが、これは長い期間乳をもたらす雌牛が、消費財から資本財への価値の移行をうながしたことによるという。

親類縁者の家を訪ねていたのか。
下山といっても、牛がいるので、単なる登山ではない。
山間の牧場か農家に滞在していたのだろう。
一日二日の滞在でなかったことは、日は近づけり、という表現からわかる。
牛の目は黒くて大きい。
ふかみどりに見えたのは、周囲の草木の緑が映っていたからだ。

ある年齢を過ぎると、あと何度ここに来ることがあるだろう、とか、あと何度この人に会えるだろう、と時折思うことがある。
もっと直截に言えば、この人と会うのはこれが最後かも知れない、と思うことだってある。
会って話をしている最中は、あまりそんなことは思わないものだが、去り際や、その場から立ち去ったあと、そんなふうに思われることがあるのだ。
何年かに一度訪れる場所、何年かに一度しか会わない人と会う場合、特にそうだ。
一首の向こう側にも、そんな思いが垣間見える。
「夏の別れ」という連作のタイトルから、そんな印象をつよくするところもあるし、だからと言って、親類や知己との永訣が具体的に詠われているわけではないのだが。

山間に滞在した幾日かの時間。主人公と、主人公が訪ねた相手、おそらく互いに老境に入ろうとしているふたりの人生の時間。そして、立ったまま草を反芻する牛の命の営みに流れるしずかな時間。主人公もまた、それらの時間を胸のうちに反芻している。
そう思うとき、立ったまま、という言葉は牛の描写ではあるが、なにか身につまされてせつない。
くらく澄んだ凸面鏡のように盛夏の緑を映している牛の目には、主人公の胸に交錯するいくつかの時間がぎゅっと凝縮しているようだ。