わたくしも此処で死ねるか姑(はは)の死にしベッドを借りてお昼寝をする

石川不二子『ゆきあひの空』(2008年)

 

猫涼み狸かくるる萩の茂り花咲く前もさかりの今も

六十年安保の次の年よりと数ふるに易し婚の歳月

ななそぢといふ齢(よはひ)かな新しき死者増えふるき死者とほざかる

穴まどひの黒く細きが二つゐし林とおもふ雪の朝なり

まくなぎのやうにひととき渦まくは汚れかわけるさくら花びら

帰りますといへばうなづく夫のまなこ涼しかりしが最後となりぬ

骨箱の前よりおろし来し酒を厨に使ふ 許したまへよ

 

石川不二子の作品を読んでいると、なんだか不思議な気持ちになってくる。素直なのが一番、素朴なのが一番。あるいは、腹を立てたり、愚痴をこぼしたりするのはばかばかしい。そう語りかけられているように思えて、なにかがふっと抜けていくような、そんな気持ちになるのだ。

ゆったりとした構え。身近な自然や人びととの関係の豊かさが、石川のこうした心のありようを形づくっているのだろう。

 

わたくしも此処で死ねるか姑(はは)の死にしベッドを借りてお昼寝をする

 

「七回忌の姑(はは)夢に来て機嫌よし何故か私も死にたくなりぬ」といった一首もある。いいなあ、と思う。

石川にとって、死はとても自然なもの、あるいは親しいものなのだ。だから、「姑(はは)の死にし」とことばになるのだと思う。姑は日ごろこのベッドを使っていて、そしてそのベッドで亡くなった。大切なのは、日ごろ使っていたことではなく、亡くなったこと。最近は病院で亡くなることが多くて、自宅で死を迎えられるのは幸せだ、といった物言いとは、おそらく無縁だろう。自分を抱えてくれているこのベッド、あるいはここという場所。それは姑が死を迎えたベッド、場所であるということが、いま、石川にとって大切なのだ。深い信頼関係のあった人の最後の場所ということ。

「お昼寝をする」。ユーモアたっぷりの結句が、そんな二人を、二人の関係をやわらかに包んでいる。

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