目隠しをされたらきっと折り鶴の額のかたちを忘れてしまう

狩野悠佳子「早稲田短歌42号」(2013年)

*「額」に「ひたい」のルビ

 

「くじらの前歯」三十首から。

折り紙といえば折り鶴、折り鶴といえば折り紙というほど、鶴は昔から日本の子どもに折られてきた。二十一世紀のいまも、折り紙あそびはすたれていない、というより、凧揚げや独楽回しなど昔からの遊びの中で、けん玉と共にますます盛んらしい。去る4月27日付の朝日新聞によれば、同紙世論調査の結果、子どものころに遊んだことがあるものの中で、「折り紙」と答えた人は、高齢者より若い世代の方に多い。「手先を使う折り紙は、幼稚園や小学校の授業でも採り入れられている」という。音楽の授業から小学校唱歌が消えていくのと対照的に、折り紙は短歌など足元にもおよばないほど伝統芸として根付いているようだ。

 

さて歌は、もしも目隠しをされたら、<わたし>はきっと折り鶴の額の形を忘れてしまうだろうという。「目隠し」は、スイカ割りでやるようなタオルの目隠しではなく、後ろから忍び足で近づいて相手の目をぱっと両手でふさぐあれだろう。「折り鶴のかたち」でなく「折り鶴の額のかたち」としたのが技量だ。ここで歌になる。仮に「折り鶴のかたちをわれは忘れてしまう」としても意味は通るが、歌の手ざわりは弱くなる。表現の枝葉をひとつのばすかどうかが、歌にリアリティを生む生まないの分かれ目となる。また、忘れてしまう「かもしれない」、「ような気がする」などと余計なことをいわないのもいい。ことばのバランスを知っている作者だ。

 

一首全体が比喩の歌である。目隠しや折り鶴に託して、日常にひそむ不安とでもいうものを伝える。たとえば、こういうことはないだろうか。日々の生活のなかで、ふとした拍子――自転車をこぎだしたり、玄関の戸を閉めたり、紅茶を一口すすったりなど、あることをなんの気なしにやった拍子に、自分の中で何かが変わってしまう、というようなことは。望んだ変化ではないのに、あるときそれはやってくる。変わってしまった自分は、もとに戻らない。一読して、ああ私にもこういうことが起こるかもしれないと思った。こわい歌だ。

 

折り鶴を素材にした詩歌には、赤尾兜子<帰り花鶴折るうちに折り殺す>という印象的な句があるが、こちらは鬱屈の詩だ。こういう人が電車待ちのホームで後ろに立ったらいやだなあ、というこわさはあるが、自分も鶴を折り殺すようになるかもしれない、というこわさはない。

 

狩野悠佳子のことばは、読者を楽しませる。つぎのような歌が、印象に残った。

 

校庭の雪がまぶしい火に見えてきみへと投げたメンソレータム

手のうえにひろげる指紋 花びらのそでを通って風よはじまれ

いつ見ても欠本のない全集を「くじらの前歯」と叩いてわらう

いちまいの皮のびきってわたしたち指のさきまで包まれている

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