吉野 裕之


まだ人のかたちをせるよ夜の駅の大き鏡の前よぎりゆく

安田純生『でで虫の歌』(2002年)

 

いつも笑む人といはれてほほゑみぬ白髪(しらが)ふえゆく頭なでつつ

焼香の順をかしきと人毎にいひしをとこの葬式けふは

丈(たけ)たかきをとめと階段のぼりゆく 常に一段先に身を置き

夜の海をすがたひそめて来たる波くだけちるとき眼下に白し

観光客多きをりには本土から魚買ふといふ島に魚食ふ

山頂に着きて声あぐ胸元に勲章のごと蜂のとまれば

うつぶして手足を伸ばし今われは川ながれゆく蛙のむくろ

 

ユーモアとペーソス。鑑賞や批評でよく使われるフレーズだが、安田純生の作品について、このフレーズは有効ではないように思う。確かに、ユーモアとペーソスといって間違いではないだろう。しかし、何か届いていない、そんな感じが残るのだ。あるいは、斜に構えるといったフレーズ。

私たちの日常は、小さなことの積み重ね。たとえば親しい人の死も、本来、小さなことなのだ。むろん、悲しみは大きい。だから、小さなことであることに気づかない。しかし、時間がそれを教えてくれる。そして、受け止めることができるようになるのだろう。

私たちの日常は、小さなことの積み重ね。安田はそのことを知っている。そして、ことばを紡いでいく。小さなことを慈しむように、日常の断面をていねいに描写していく。

 

まだ人のかたちをせるよ夜の駅の大き鏡の前よぎりゆく

 

かたちは大切である。外と内ということばを使えば、かたちは外であろう。しかし、外は内の現われ。つまり、「外/内」ではなく「外=内」。その意味で、かたちは大切なのだ。

「まだ人のかたちをせるよ」。そうか、私たちはだんだんと「人のかたち」ではなくなっていくのか。そうだとしたら、どのようになっていくのだろう。溶けてしまうのだろうか。それはなんだか怖い。化け物のかたちになっていくのだろうか。ちょっと興味はあるが、やはり怖い。安田は、幸いにまだ「人のかたち」をしているらしい。それはよかった。

上句は鏡に映った姿が、下句は鏡の前をよぎる動作が詠まれている。つまり、一首には2つのことがらが詠まれており、いわばモンタージュとなっている。

それは夜の駅のできごと。駅は人が行き交う場所。来る人がいて、行く人がいる。平日なら、職場や学校などから家に向かう人びとが通過していく。しかし、人びとはほんとうに職場や学校などから家に向かっているのだろうか。人びとはどこから来て、どこに向かっているのか。夜はこの世とあの世をつなぐ時間帯。

そんな夜の駅の大きな鏡。そこに映っている私。そこをよぎりゆく私。二人の私は、ほんとうに同じ私なのだろうか。もしかしたら、私はもう「人のかたち」をしていないのかもしれない。