枡野浩一『てのりくじら』(1997年)
『てのりくじら』は、46首で構成された、60ページほどの小さな一冊。「枡野浩一短歌集Ⅰ」とサブタイトルがついている。オカザキマリのイラストとのコラボレーションが、とても素敵だ。
こんなにもふざけたきょうがある以上どんなあすでもありうるだろう
いろいろと苦しいこともあるけれどむなしいこともいろいろとある
肯定を必要とする君といて平気平気が口ぐせになる
階段をおりる自分をうしろから突き飛ばしたくなり立ちどまる
口笛を吹けないひとが増えたのは吹く必要がないからだろう
ついてないわけじゃなくってラッキーなことが特別起こらないだけ
有名な画家の絵だからすばらしい 値段を知るとなおすばらしい
気づくとは傷つくことだ 刺青のごとく言葉を胸に刻んで
結婚はめでたいことだ 臨終はかなしいことだ まちがえるなよ
だれだって欲しいよ だけど本当はないものなんだ 「どこでもドア」は
なんだか、ほっとする。私たちはみんな、でこぼこしている。生まれたときからずっと。でこぼこしないで生まれてくる人はいない。あっちがでっぱっていたり、こっちがひっこんでいたり。だから、世の中や社会だってでこぼこしている。こっちをひっこめると、あっちがでっぱって。なかなかたいへんだ。「結婚はめでたいことだ 臨終はかなしいことだ まちがえるなよ」。それに、こんな大切なことを間違えることもある。
「肯定を必要とする君といて平気平気が口ぐせになる」。でも、でこぼこしていてもいいのだ。「平気平気」。
なんだか、ほっとする。そして、いつ読んでも、新しい。そう、私たちはいつも、でこぼこしているから。
もう愛や夢を茶化して笑うほど弱くはないし子供でもない
そうだ、弱いから、子供だから、茶化すのだ。強い大人は茶化すことなんか、しない。
私たちはみんな、強くなろうとする、大人になろうとする。それが当たり前、と信じて。一所懸命頑張る。一所懸命強くなろうとする、大人になろうとする。でも、いつになっても強くなれなくて、大人になれなくて。
「だれだって欲しいよ だけど本当はないものなんだ 「どこでもドア」は」。「どこでもドア」がないことは、誰でも知っている。ただ、「だれだって欲しいよ だけど本当はないものなんだ」とことばにしたとき、ことばにできたとき、救われるのだと思う。
ああ、そうだ。弱いから、子供だから、茶化すのではないのだ。それに、強い大人はどこにもいない。私たちは、ある日、ふとそのことに気づく。