枝蛙木ぬれひそかに鳴く声のきよらなるかも道細りつつ

芥川龍之介『芥川龍之介全集8』(ちくま文庫)

*枝蛙に「えだがへる」のルビ。

 芥川龍之介が、「唯ぼんやりした不安」と遺書に書いて、致死量の薬物を飲んで自殺したのは、1927(昭和2)年7月24日未明であった。大正期の流行作家であっただけに、その死は驚きであった。今から87年前のことだ。

芥川龍之介については、実はあまり詳しく知らない。少青年期の最初、つまり文学入門時に代表的な短編は読んだものの、やがて忘れてしまった。いくつかの珠玉のような短編、死を目前にした時期の数編を除いては記憶に薄い。文学かぶれの少年の間に、芥川は、早く卒業するものだという空気があった。と思っていたのは私だけだったのかもしれないのだが、日本浪曼派周辺の詩人であった田中克己の回想に、保田與重郎から芥川は早く卒業するように言われたとあって、それを信奉していた。今となると勿体なかったようにも思う。芭蕉やキリストを描いた短編を後に面白く思うのだから、ちゃんと読んでおくのだった。

卒業という語の捉え方を間違えていた。ひととおり読んだうえでの卒業なのだ。数冊読んで、済ませた気になっていた。いい気なものだ。生意気だったのだろう。大きな損をした。芥川は、物語の宝庫である。

芥川は多彩だ。詩歌にかんしても才を示し、俳句には優れた作品が多い。旋頭歌がいい。短歌は、少ない。ただ、斎藤茂吉の『赤光』の早い時期からの理解者である。数は少ないけれども、しっかりした短歌が残されている。

 

おぼろかに栗の垂り花見えそむるこのあかつきは静かなるかな

この朝のしぐれの雨のふりしかば濡れしづまりぬ庭土の荒れ

わが前を歩める犬のふぐり赤しつめたからむとふと思ひたり

わが門のうすくらがりに人のゐてあくびせるにも驚く我は

 

どうだろう。一、二首の描写は、芥川の作歌の力が分かるだろう。三、四首は、おそらく晩年、死の意識が近づいてきての歌だと思われる。淋しげな、そしてどこか神経質な作だ。

今日のこの一首は、わりあい早い時期のものかと思われるが、枝の蛙(かわづ)を歌って巧い。枝の先にとまって鳴く小さな雨蛙が、木隠れに「きよら」な声を発する。そしてその道はいっそう細く奥まってゆく。「きよら」が生きている。