人間が行方絶ちしを蒸発と湯気のごとくに言ひし日のあり

江田浩之『夕照』(2012)

 

10月29日に江田浩之の『風鶏』について書いたが、この『夕照』はそれに続く江田の第二歌集で、また残念なことに遺歌集となってしまった。

この一首の「蒸発」という言葉、そう言われれば二つの意味を持つのだといまさら思う。辞典では「ひとがいつのまにか姿を消す、行方不明になる」ことの方を二番目の意味とし、「俗」な使い方としている。「言ひし日のあり」で、昔はニュースなどで「ひとが蒸発した」などとよく使っていたのだ。今は「行方不明」という表現がほとんどだなのだろう。考えてみれば子供のころ、その「蒸発」というニュースの言葉がとても怖かったことを思い出す。この歌のように、ある日人がその場所から気体のように消えてしまう印象と重なるからだ。気体のように空気中にひとが蒸発してしまうイメージは、江田の境涯と合わせて読むと「死」のイメージへと連鎖していく。ある日、自分の命が音もなく忽然とこの世から消えてしまう、その喪失感、あっけなさというものを感じるのだ。

 

縄のぼりの一番下の縄の瘤今も校庭に垂れてしゐんか

 

縄のぼりはとてもシンプルな遊びだ。太い縄の一番下に結び目がついていてそこに足をかけて、上の方へ、腕や巻きつけた足の力で昇っていく。私は昇り棒なども苦手で上の方までたどり着いたことがなかった。作者は子どもの頃この遊びが好きで得意だったのかもしれない。学校の隅にあったその縄と結ばれた瘤をまざまざと思い出し、元気に走り回っていた子供時代を思っている。また「瘤」という表現に存在感がある。

 

みづからが咲かせし大きな花なれど泰山木は葉陰に隠す

 

初夏に大きな白い花を咲かせる泰山木。芳香があり、盃のような形をしている。葉も大きく密集しているからこの歌のように「葉陰に隠す」ように花が見えるのだ。擬人化の表現で詠まれた一首だが、花の奥ゆかしさのようなものを感じる。美しく大きな花を咲かせた泰山木だが、世にひけらかすことなくそっと隠すように咲いていて、花をそのように感じている作者の感性に惹かれる。

 

靴下を履きゆく姿かがまりて死の一方(ひとかた)へなだるるごとし

消しゴムの落ちしをとると屈みゆくこのまま逝きし人もあるらん

生きること死ぬことみんなうつくしく陽ざしをのせて道はましろき

 

歌集の後半にはこういった「死」へ迫った歌が多い。一首目、二首目は似たような歌だ。靴下をはこうと屈まった姿勢になる。そのままわが身が死へなだれていくような危うさを感じている。また次の、床に落ちた消しゴムを拾おうとして、その姿勢のまま逝ってしまうひともあるだろうという歌も何か切ないものがある。「屈む」という行為は身体を丸めて、自分の体のなかに自分が入り、少し動物的な行為のようにも思う。そのときに身体や命というものを意識するのではないか。そして日常のどこかに、突然死はある。人は常にそれを忘れていることを考えさせられる。

三首目はシンプルな歌だが、「生きること死ぬことみんなうつくしく」と「生」も「死」も同じ次元で捉えている所が印象深い。下句の前方へ広がる一本の道の白さも、あの世へ続いていくようで、明るくまぶしいのに哀しいイメージがある。