大滝和子『人類のヴァイオリン』
(2000年、砂子屋書房)
七夕までまだだいぶありますが、一昨日の米川千嘉子さんの一首、
〈女は大地〉かかる矜持のつまらなさ昼さくら湯はさやさやと澄み
への返歌にどうしても見えるので、このさい。
同じタイミング(第三句)で「つまらなさ」と言い、ともに「さやさや」した飲料を配したら、春と夏が姉妹のよう。「ラムネ」は、より若々しく刺激的です。
また、社会通念への批判のある米川さんの歌にくらべて、より生理的な思春期のとまどいのようなものを感じます。
半透明青年から殖えひろがりて摩天楼都市あゆむ人びと
いま我はヒースクリフの女性形 ゆがむ球根土にしずめる
たれもたれもみんな寂しい自動人形[オートマタ] 桜みるため集まりてくる
精霊めいた青年、性の越境、景の非人間化など、「性別がふたつ」以外の人間の状態がたびたび描かれます。たとえ苦悩がともなっても、生のゆたかさとは区分の多彩さ、柔軟性であるという主張があります。
都市風景や、作者の好む神話や天体モチーフ(七夕も星の伝説ですし)はそれだけでもSF的に映りますが、SFの要はなにより、思考実験文学であること。
そのスピリットが短歌に活かされるのは、たのしいことです。
グレッグ・イーガンの『万物理論』(山岸真訳、2004年、創元SF文庫)では、強化男性・女性、微化男性・女性、汎性など9種類のジェンダーの存在する世界が描かれました。
日本の歌人とオーストラリアの作家のシンクロニシティも、なかなかSF的です。