三井 修


好まざる昔語(むかしがた)りし我つひに結社の稗田阿礼(ひえだのあれ)かと嘲ふ

    蒔田さくら子『天地眼』(平成22年、短歌研究社)

 稗田阿礼は天武天皇に舎人として仕え、その記憶力の良さを見込まれて「帝紀」「旧辞」等の誦習を命じられた。天明天皇の代になって詔により太安万侶が稗田阿礼の誦するところを記して「古事記」を編んだとされている。

作者は1951年に短歌結社「短歌人」に入会し、同誌の発行人なども務め、長く同結社の指導的立場にある。1951年入会であれば、今年で65年間、同一結社在籍していることになるが、このような人は他にはあまりいないであろう。初期の頃の苦労したことなど、結社の長い歴史の大半を知っているのである。そのような人から見れば、「最近の会員は……」ということになるのであろうか。若い会員に対して、ストレートには言わないが、時折「昔はこうだった」というようなことを言うに違いない。作者のそのような思いが若い会員に十分に理解されているとは思えない。ひょっとしたら「また昔話が始まった……」と思われているのかも知れない。そのことを作者は十分に分かっている。それでも言わなければならないことがあるのだろう。

嘲っているのは誰だろうか。自分自身ではないのだろうか。若い会員たちは内心は「また昔話か」と思いながらも、一応神妙な顔で聞いているのだと思う。しかし、作者は若者たちが自分の昔話を好んでいないことを知っている。そして「ああ、まるで稗田阿礼のようだ」と思っているのだ。稗田阿礼が昔話をしたからこそ、「古事記」が成って、その書物が現代に至るまで長く伝えられて、現代の我々が古代の先祖たちの豊かな心を知ることができるように。たとえ「古事記」の内容が神話だとしても、その神話を生んだのは紛れもなく我々の祖先の心なのである。歴史の長い結社には大体どこにも稗田阿礼が一人や二人はいると思う。我々はその昔話に謙虚に耳を傾け、後世に伝えていかなければならないだろう。

 

ケータイに心身捉はれ顔あげぬ車中の人を数ふつれづれ

生きいくに綺麗ごといふ羞かしさ 己のごみを他人(ひと)にあづけて

身に余る重さでしたと隣室に機器運びしのち腰が訴ふ