食卓にこぼれて光る塩の粒、宇宙の闇をわれは想へり

杜澤光一郎『群青の影』(平成20年、角川書店)

 食卓に塩が零れている。少し大きめの塩の結晶が散在しているのであろう。テーブルクロス(或いは、木の肌か)の色は判らないが、それが宇宙に散在している星のように見えるのだ。その連想の飛び方が壮大であり、見事である。

 あらゆる生命体は細胞から構成され、細胞はナトリウム、即ち、塩によってその機能を維持している。一方、生命体は宇宙の中で作られたた。そして宗教は宇宙にや生命の始まりを説く。「ロトの妻の塩柱」や「イザナギ・イザナミ」の話を持ち出すまでもなく、「塩」は宗教や神話と深く結びつのているのだ。「宗教と物理学とのへだたりは僅か、宇宙の死をかたるとき」(堀田季何)という作品もあったが、宇宙の生や死を考える時、宗教と宇宙物理学とは一枚の紙の裏表なのではないだろうか。

 掲出歌は、食卓にこぼれた塩の粒と、宇宙空間に散在する星々との視覚的な連想から生まれた索引だと思うが、上記のようなことを考えた時、生命の始まりと終り、極大と極小、それもとんでもないスケールの両端のような壮大な連想も浮かんでくる。深い一首である。

     金魚鉢に子が飼ふたなごや鮒の類、人間(ひと)に馴れざる体(からだ)ひらめかす

     鶏(にわとり)もせつなかるらむ秋日差しひた照る昼をいくたびも啼く

     海を見て馬ら立ちをりつながれし馬より放牧の馬は寂しげ