死の時間近づく人に「おだいじに」とはいへぬただ礼(ゐや)にて離る

佐藤通雅『強霜』(2011年、砂子屋書房)

 前後の作品から叔父さんを見舞った時のことと判る。前後の作品から更に読み取れる情報は、子を持たず妻に先立たれている。かつては職業軍人でもあったようだ。重篤な容態であり、もはや回復の見込みはない。身寄りは甥である作者しかいないのであろう。主治医も「延命はどうしますか」と作者に聴くほどである。

普通、病人のお見舞いの帰りには「お大事に」と言う。しかし、誰の目にも死は目前となった人に対して「おだいじに」とは何か空々しい。何も言う言葉が見つからない。その場合、ただ深く一礼をして去るしかない。

「死の時間近づく人」とは何とも直截な言い方である。しかし、この抒情を振り払ったような表現にかえって「死」への敬虔な思いが感じられる。作者は「死」の厳粛さに対して深く礼をしているのかも知れない。

結句の「離る」はもちろん、病人のもとを離れるのであるが、死に近づいている人を思いながらも、明日からも生きていかなければならない作者自身の事と重なってしまう。死は悲しいことであるが、それは誰にも避けられない事である。いずれは作者自身にも訪れる運命である。しかし、取り合えず今は生きている。明日からの生活や短歌の仕事が待っている。その思いが(病人から)「離る」という一語に重なってしまう。

作者は仙台にあって「路上」という個人雑誌を発行している。1966年に創刊したとあるから、もう半世紀も続いている雑誌である。結社誌とは違い、個人誌の継続には発行者の強い意志が必要となる。出さなければ出さないで済んでしまう。多くの個人誌がいつの間にか消えていってしまう中で、その充実した内容といい長い歴史といい、屹立した存在感を示す雑誌である。それ故に、代金を払って購入する根強いファンが多いと聞く。

 

ハンガーのTシャツずらり干されをる男子(をのこ)ゐる家は海賊船のやう

紙芝居「くもの糸」もいちどたしかむるに男は金髪にて糸よじぢのぼる

あかごには日のたつぷりの縁側(えん)よろしガーゼの産着ひらいてやりぬ