光森裕樹


親にスマホもPSPも取られて良かった自由ですと日誌にあり

染野太朗『人魚』(KADOKAWA:2016年)


(☜2月27日(月)「ゲーム機の世代スイッチ (7)」より続く)

 

◆ ゲーム機の世代スイッチ (8)

 

教育の場における一首。おそらくは担当するクラスの生徒なのだろう。生徒が綴る日誌のなかに書かれたことばが一首の大部分を占める。
 

親に、携帯電話と携帯ゲーム機の「プレイステーション・ポータブル(PSP)」を取られるということ自体は珍しいことではないだろう。面白いのは、それに続く感想が例えば「嫌だけれど、勉強を頑張らなければ」といったものではなく、「良かった自由です」というものであることだ。前者には、取られた悔しさというマイナス感情への一時的な潜行があるが、後者は特効薬が効いたような反応である。「良かった自由です」というたどたどしい言葉運びと合わせて、そこがなんとも危ういのである。
 

勉強時間がとれるようになったことも、真の自由を得たこと自体は良いことだ。けれども、そんなに素直で良いのだろうか、そんなことをさらりと日記に書く逡巡の無さで良いのだろうか。この生徒に対する教師としての悩みは、学業面ではないところにあるのかもしれない。
 

電話機であるのに、ゲームも音楽もインターネットも愉しめるスマホ。ゲーム機であるのに、音声通話も音楽もインターネットも愉しめるPSP。時代を経るなかで機器は複雑になり、それで出来ないことを探すほうが難しくなった。
 

「ゲームボーイ」における「ボーイ」、「たまごっち」における「っち」の響きの持つニュアンスは、これらの機器にはもはや見られない。その点は、ゲーム機の進化とともに生きてきた身としては、やや寂しいように思われる。なんでもできる端末だからこそ、それを持つ者から全てを奪い得る。そう考えたとき、端末を取り上げられた生徒が「自由」を得たということも案外、的確な言葉のように思えてくる。
 
ゲーム機の進化を早足に辿ってきたが、最後に掲出歌にも出てきた「スマホ」で遊ぶ歌も紹介しておきたい。PSPにはそのバリエーションとして「PSP go」があったが、次回はスマホで「GO」する〈あれ〉である――
 
 

(☞次回、3月3日(金)「ゲーム機の世代スイッチ (9)」へと続く)