湯に入れば湯殿に母はつき来り我が背を撫でて泣きたまふなり

岡野弘彦『冬の家族』(1967年・角川書店)

 

作者が軍に召集されたときの歌。この歌の前に〈生きて帰れと言ふことばすらはばかりてただおろおろと母はいましき〉があり、それを受けての「つき来り」である。「たたかひを憶ふ」の章にある。出征を見送る母が流した涙を歌う。

 

家にいながらも、出征する息子に、母は「生きよ」と声に出していえない。世間の目が、幾重にも重なって胸中に及んでいるのである。胸中を察しているが、作者も強いて言葉にはしない。けれども、母はやはり気持ちを伝えたいのだ。人目の及ばない浴室にきて、息子の背中を撫でて泣いた。「撫でて」に、母の万感の思いがこもっている。無自覚ながら、言葉を奪われた母は触覚をもって息子を記憶しておこうとしたのかもしれない。

 

この歌を読むと、わたしはいつも、言葉って何だろうと思う。言葉で伝えられたら、それはそれで感銘深い母の思いではあるが、遮断された言葉の代わりに、皮膚感覚で記憶された母のかなしみは、いっそう深く、母の全体を作者に刻むことになったのではなかったか。

 

戦時の家庭内における心理を歌い、反戦の思いを記録する一首であると同時に、言葉によって伝えることと、行為をもって推し測ることの違いを思わせる一首でもある。他に、折口信夫の衣鉢を継ぐ研究者としての次のような歌がある。

 

よみがへり信ずるゆゑにうつくしき明日香の御代の魂ごひの歌

脚ほそく腹大きなる幼な児がただひとり道にいでて泣きたつ

村の子のむれにまじりてうつつなし阿波の傀儡くぐつの舞ふを見てをり