光森裕樹


夜の公園にポケモン探せと奨励せしこの世あまりに小さき日本

川野里子「栗とポケモン」(うた新聞:2016年10月号)


(☜3月1日(水)「ゲーム機の世代スイッチ (8)」より続く)

 

◆ ゲーム機の世代スイッチ (9)

 

2016年7月に携帯電話端末を対象にサービスが開始された、ナイアンティック社と株式会社ポケモンによる「ポケモンGO(Pokémon GO)」は世界中で爆発的な広がりを見せた。位置情報を利用して、現実世界でモンスターを探して集めるというゲーム内容に、携帯ゲーム機で世界的な人気のある「ポケットモンスター」シリーズを掛け合わせた結果である。
 

ゲーム機やゲーム業界の視点に立てば、任天堂(株式会社ポケモンは持ち分法適用会社)がいわば競合とも言える携帯電話端末への本格的な進出を図った出来事となるだろうか。細かいことまで書かなくとも周知のことではあるが、何事も時代が経つにつれて忘れられていくことは、これまで見てきたゲーム機に関する歌が示している。
 

掲出歌の前には次の二首が並ぶ。
 

啄木も牧水もさびしがりなりき日本がちひさくなりし近代
副業に鳥飼ふべしと奨励せし昭和元年日本のさびしさ

(*「啄」の字は作品中では点のある字形)

およそ90年前の時代が振り返られている。地方から東京を目指した啄木と、日本中を旅した牧水。彼らの歩みの根底にさびしさを見つつ、それは昭和初期の日本全体のさびしさでもあったと語られている。「副業に鳥飼ふべし」とは養鶏の奨励施策を指すと思われる。貧しさからの脱出という現実的な提案である。
 

時代は変わって、「ポケモンGO」を起動して歩き続ける人々の根底には何があるのだろうか。少なくとも、啄木や牧水の歩みは「GO!」という快活なものではなかっただろう。飽食の時代の健康のため、引きこもり対策のために国や社会が推奨を検討する状況に、川野は何よりも「小さき日本」を感じる。その小ささは「ちひさくなりし近代」の小ささとは質を異にするはずだ。
 

連作「栗とポケモン」では、近代と現代との照らし合わせの中に、老いた母親との関係性が描かれている。
 

老い母の探せるいたくめづらしきポケモンとして吾逢ひにゆく

 

母親にはなかなか会えない距離にいるのだろう。すでに母親が娘を認知できない状況にあるようにも読める。世の中の人々がポケモンを探しに歩くなか、ポケモンである自身は母の元へと自ら訪ねにゆく。その対称性のなかに、さびしさが浮かぶ。
 

時代に合わせて、ときには時代に大きな影響を与えつつ変わっていくゲーム機が詠まれた歌を見てきた。ゲーム機それぞれに異なる表情があり、一括りにはできない感触があった。それは、「ファミコン」という言葉ひとつであらゆるゲーム機を指し示すことができなくなったことにも表れている。
 

本日は、任天堂の新型ゲーム機である「Nintendo Switch(ニンテンドースイッチ)」の発売日である。このゲーム機もまた歌に詠まれるのだろうか。そして、十年ほど後に私はその歌をきっかけとして今のこの時代を懐かしく思い出すのだろうか。
 
 

(〆「ゲーム機の世代スイッチ」おわり)