咲く花が群葉(むらは)の青を混へつつ濁りゆく日よ 父と呼ばれて

大辻隆弘『ルーノ』(1993年)

父親になった心境を表す1首。「咲く花」は桜で、葉桜のころを詠う。「咲く花」から「濁りゆく」までは、葉桜の姿を示すとともに心境の喩である。だからこそ、「群葉の青を混へ」と色を用いて、葉桜の、混ざりかけの絵の具のような、決して目に快いとはいえない印象を引きだして、「濁りゆく」に結びつける。「父と呼ばれて」と受け身で述べるところに、父になったことについての戸惑いが表れている。上句に返れば、「群葉」の一語に込められた憂鬱は深い。「若葉」ではないのだ。その憂鬱は、父親になる=「若さとの決別をいよいよ決定的に迫られる」こととかかわっているだろう。

  わらわらと花降る樹下に子を抱けば子に哀楽のけぢめはあらぬ

掲出歌の次にはこの1首がおかれている。こちらは桜の花の下で子を抱く様子。「わらわらと」散り乱れる桜に、生まれて間もない子の表情が動いたのだろう。だがその子にはまだ「哀楽のけぢめ」はない、と気がつく。大人ならば、さまざまなことを思う。複雑なことは思わないにしても、美しい、かなしいといった単純な感興はもよおす。かなしい、たのしいなど、感情の区別はまだなく、わが子はただ散る桜を目に映している。父親になった青年が、興味深い他者(=子)とのみずみずしい出会いを果たしている様子が、下句の発見と驚きを含んだ言い回しから伝わってくる。

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