桃色の服をあてがふ試着室にゴキブリの子の走り去る見ゆ

栗木京子『水惑星』(1984)

 
数日前の宵の口、小さな交差点を渡りながらふと横道に目をやったところ、薄暗い路上で、推定二十歳くらいの華奢な男の子が、女の子に土下座をしていた。何かの見間違いかと思い、思わず数歩バックして確認したが、やはり土下座だ。赤い服を着たかわいい女の子は、当惑して少し笑っている。二人とも無言。近くにあるのは不動産屋、斜向かいには結婚式場。一体何があったのか。
ただならぬ場面を目撃してしまった気がしてどきどきしながら、私が二十歳だった頃ってどういう感じだったかなあ、と思い返す。無論、土下座したこともされてしまったこともないが、なんだか今よりもっといろんなことが不安定だったような気がして、しばらく、落ち着かない気分が続いた。
 
……という前置きとはあまり関係ないのだが、1975年に角川短歌賞を受賞した「二十歳の譜」から引いた。まさに、二十歳くらいの若者の気分がよく表れた歌だと思う。
桃色の服を「私に似合うかしら」とためらいなく胸に当ててみる、自意識の強さ。走り去る「ゴキブリの子」を見なかったことにしてしまえない、精神的な潔癖さ。その両方が同居しているところに、若さを感じる。
 
  我よりも美しき友と連れだちて男群れ居る場所を通れり
 
これも同じ一連から。「美しき友」を語るとき、「我よりも」という比較を持ち込まずにはいられない、目一杯張り詰めた自意識が眩しい。
 
  今しばし日向臭さを持ちゐたし濡れしものみな美しき世に
 
『水惑星』の中では比較的目立たない歌かもしれないが、なんとなく好きな一首。「濡れしもの」たちの光に憧れを抱き、自分もいずれその光を身に纏うのだろうと予感しながら、もうしばらくは「日向臭」い存在でいようとする。残り少ない少女の感覚を惜しむような、はかない思いが味わい深い。

 

 

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