葛原妙子『原牛』(1960年)
詩を書いている同い年の女性が、「葛原妙子が好き」といった。「えっ」。私はすこし驚いた。短歌をつくりはじめてまだ数年の、20代のころのことである。そのあとどのような会話をしたのかよく覚えていないのだが、現代歌人文庫『葛原妙子歌集』(1986年)を求めたのは、彼女のことばを聞いたからだったと思う。
生みし仔の胎盤を食ひし飼猫がけさは白毛(はくまう)となりてそよげる
胡桃ほどの脳髄をともしまひるまわが白猫に瞑想ありき
黒峠とふ峠ありにし あるひは日本の地図にはあらぬ
しづかなる緋(ひい)の夕ぐもコップに沈めるもろともにのみくだしたり
水中にみどりごの眸流れゐき鯉のごとき眸ながれゐき
この強さは何だろう。葛原妙子の作品を読むと、いつもそんなことを思う。断定していく強さ。断定とは、物事にはっきりした判断をくだすこと。それは、けっして易しいことではない。
みどりのバナナぎつしりと詰め室(むろ)をしめガスを放つはおそろしき仕事
おそろしい一首だと思う。「おそろしき仕事」と断定するおそろしさ。
「みどりのバナナ」。まず、7音で「みどりのバナナ」を提示する。普段私たちが見慣れているのは、黄色く熟したバナナ。まだ緑色のものは、知らないわけではないが、なんとなく違和感がある。違和感が、読者の真ん中にまず置かれるのだ。「ぎつしりと詰め」「室(むろ)をしめ」「ガスを放つ」。人の行為が、続けざまに3つ。違和感は膨らみながら、はっきりと表情を見せる。そう、だからそれは「おそろしき仕事」なのだ。
巧みな一首だと思う。「おそろしき仕事」と断定していく巧みさ。私は、それがおそろしいのだ。
おそらく、他者がいないのだと思う。だから、ぶれることなく断定できるのだ。そして、それがおそろしい。
彼女はどうしているだろう。もう20年以上も会っていないが、借りたままの本が、本棚にある。