吉野 裕之


陸橋に棄てられてゐる虹色の買物袋風はらみをり

江畑 實『瑠璃色世紀』(2010年)

 

出勤の途次立ち止まりわが社屋ピサの斜塔を見るごとく見る

早春のゆふべ十指に囲まれて真水は見たり洪水のゆめ

三分の砂時計立てそのなかの砂漠に自らを幽閉す

死亡欄切り抜くまへにぺっきりと折り取るカッターナイフの刃先

ものうげに君はみつめる一枚の紅き砂漠をめくるゆびさき

家族みな不在の午後の厨辺(ちゅうへん)にさむざむと光(て)る夏の包丁

冬の陽のおぼおぼと零(ふ)る海底にさかなのすがた脱ぐさかなたち

 

私たちの日常は、常に向こう側をもっている。江畑實の作品を読みながら、ふとそんなことを思う。それは当たり前のことかもしれない。当たり前で、誰でも知っていて、だからこそ日ごろは気づかない振りをしているのかもしれない。

 

陸橋に棄てられてゐる虹色の買物袋風はらみをり

 

陸橋。それは道路や鉄道の線路、あるいは窪地などを渡るために架けられた橋。水を渡るための橋と違って、主に人工物に対抗する人工物であり、存在そのものがなんだか不思議な感じがする。

この陸橋は、道路か線路を渡るための陸橋だろう。おそらく大都市の。そこに、虹色の買物袋が棄てられているのだという。「虹色の買物袋」。陸橋は地面よりすこし高い。つまり、空に近い。だから、空から虹が落ちてきて、買物袋に貼りついてしまったのだろうか。「買物袋風はらみをり」。その買物袋は風をはらんでいる。虹は、風の力で空に帰ろうとしているのか。いや、それを諦め、地上を転がろうとしているのか。いずれにしろ、陸橋を渡る人びととは関係ないところで、虹色の買物袋は存在している。

日常。それは私たちのもの。日常の向こう側。それは誰のものなのだろう。