前田康子


馬鹿げたる考へがぐんぐん大きくなりキャベツなどが大きくなりゆくに似る

安立スハル『この梅生ずべし』(1964)

 

最近、「口と口で話し疲れて日の暮れは大人しそうなキャベツを買えり」という歌をつくった。長い時間、人と意見をかわしたあと、とても疲れて夕飯の買い物に行ったときにキャベツを買った。それが小振りなキャベツで大人しそうに見えたのだ。トマトやブロッコリーとはちがって主張していない感じにほっとした気持ちを詠んでいる。この歌を作ったとき安立スハルのキャベツの歌をどこか意識していた。5・9・6・10・7の破調の歌であるが、勢いで読ませるところがある。

「馬鹿げたる考へ」とはどんなことだろう。ありえないようなことを頭で想像していて、それが止まらなくなりキャベツが育っていくようにむくむくと膨らんでいっているということか。キャベツの重みが人間の頭の感じを思わせるので、下句の表現が強引ではなく、おもしろさも出ている。

 

(とこ)臥しのわれの周囲の掃かるると風呂敷を顔に被せられたり

吾は小さき人となりつつ枕べの盆栽の木立の(わき)をさまよふ

病むわれがたまたま悪態をつくときに生きてゐる感じが鋭く顕ち来る

 

結核により療養生活を長くしていた安立だが、その歌はどこか伸びやかでユーモアがある。一首目は寝ている部屋を掃除してもらっているのだが、埃が顔にかからないように風呂敷を被せられている。リアルに様子が見えて来る。二首目はじっと寝ていなくてはならない毎日、ふと枕辺にある盆栽の木に小人となって遊んでいる自分を空想している。童心のようなかわいらしさがある。三首目では、何かの拍子に憎まれ口をたたいている自分がいて、その反面、そういう時にこそ生きているエネルギーを自分自身で感じている。よくわかる一首だ。

 

われは繊き少女なりけり父の吐く皮肉と罵言の中に育ちき

われに何を希みし父か歩き方が静かすぎると言ひて叱りき

病み易き我を憎みし亡き父の心解せぬといふにもあらず

 

父を詠んだ歌をみると、それほど幸せな子供時代でなかったように見える。一首目、身体の弱い娘に常に父は皮肉と罵りを繰り返していたのだろうか。(何かの記事で読んだことがあるが子供を叱るのはいいが「皮肉」を言うのは二重に子供を傷つける一番いけないことらしい。)安立は大正12年生まれであるから、もっと古い時代の父親であり家庭環境があったと思うが、二首目では足音の静かさすらも叱っている父がいる。普通は逆で、どたどたと歩いたり走ったりすると叱られたものだが、安立の場合はちがう。父は心配でたまらなかったのかもしれない。どたどたと歩いてくれるような活発な子供であってほしいといつも思っていたのかもしれない。

そういう父をどこかでわかろうとしている作者が三首目にいる。「我を憎みし亡き父」と哀しい表現であるが、その裏では普通の子供のように健やかに育ってほしいという切なる願いがあったのを、安立自身も父から感じとっていたのだ。一般に親に何かを言われて傷ついた歌はよく見る。「解せぬといふにもあらず」と口籠りつつも、親の気持ちになって理解しようとしている作者に、考えさせられるものがある。