一ノ関忠人


いまははた 老いかゞまりて、誰よりもかれよりも 低き しはぶきをする

釈迢空『倭をぐな』(1955年)

 

今年は釈迢空・折口信夫の没後60年にあたる。能登羽咋の藤井家(折口春洋の実家)では、迢空の亡くなった9月3日に親しきものが集い60年祭がいとなまれることだろう。前日、2日の夕方は前夜祭。椨の一木が庭にそそり立つ藤井家から灯りが消え、気多大社の神官の吹く笛の音に折口信夫、春洋の靈が呼ばれる。正面には迢空の歌と春洋の歌の軸が掛けられている。

 

気多の村 若葉くろずむ時に来て、遠海原の 音を 聴きをり    迢空

春畠に菜の葉荒びしほど過ぎて、おもかげに 師をさびしまむとす  春洋

 

翌日は藤井家での祭の後、海岸近き村の墓地の父子墓に参加者各自が椨の一枝を捧げ、詩「傷つけずあれ」を奉読して一連の祭は終わる。清々しい印象の残る迢空を偲ぶ年ごとの祭がこの60年ひそやかに行われてきた。そして今年も同じように行われるだろう。

その祭主を岡野弘彦が長くつとめてきた。年々の祭詞は、私の知る限りにおいては時々の時代の流れに触れて心厚いものであった。その岡野の『折口信夫の晩年』(中公文庫)をひさびさに読み返した。師迢空への厚い信頼が滲む、そして死へ向かう迢空の衰えが如実に感じられる筆致は、時に目頭が熱くなるようで、あらためて感動した。

とりわけ迢空最後の夏、箱根の叢隠居滞在中の師と弟子二人の暮らしの機微に触れた箇所は、迢空の衰えただならぬ中に岡野が大切なものを学び取ってゆく様子が、ほんとうに細やかに抑制された筆致で描かれている。

そこに、この歌に触れる箇所がある。

 

この夏箱根に来てからの先生の体と心の急速な衰えは、異様というよりほかなかった。毎夜指圧のとき、指先に触れる肌の乾きや、筋肉のこわばりの具合で、一日一日の肉体の衰えの様子はありありと感じられていた。また、先生を知る人なら誰でも耳に残っているにちがいない、あの、咽喉の奥にからんだ痰を切るための、「クワッ」という鋭く力強い咳払いの声も、この頃はほとんど聞かれなくなっていた。

 

と書き、そこに今日の一首と、

 

かくひとり老いかゞまりて、ひとのみな憎む日はやく 到りけるかも

 

である。

「畳にごろりと身を横たえて、頭の上にゆらゆらと白紙の舞い立つのを、身から迷い出た自分の魂を見つめるようにじいっと見ていられる。」その白紙には、この二首と、歌の下には、「僧形の老人が、布団から半ば身を起こし頭を垂れて思い入っている姿が画かれて」いたのだという。

まるで衰えた迢空そのものであるような画と歌である。「二、三日前に書かれたまま、机の上に置かれていて、ときどき風に舞い立っているこの老いの咳(しわぶ)きを歎く歌と、歌の下に描かれた僧形の老人の絵のさびしさはただごとではなかった。その絵と歌を見ていると、先生はひょっとすると生きるための執意をみずから絶ち切ってしまわれたのではないだろうか、という疑いが、打ち消しても打ち消しても、心に湧いてくるのだった。」

迢空の死は、それからおよそ半月の後のことであった。

この絵は現在、所在が分かっていない。誰がどこに持っているのだろうか。あるいは焼かれてしまったのか。ぜひ実物が見てみたいものである。