一ノ関忠人


もの言へば 泣けくるものを。通夜ふけて、親しき友の また一人着く

穂積忠『叢』(1955年)

*着に「ツ」のルビ。

 

釈迢空・折口信夫の通夜の夜の歌である。

穂積忠(ほづみ きよし1901~1954年)は、伊豆大仁に生れ、14歳で北原白秋の門に入り、やがて国学院に学び折口信夫に師事する。「短歌の先生は白秋先生、学問の先生は折口先生」と本人は言っていたというが、二人の師にその歌と人物を愛され、それゆえに複雑な心の葛藤を持たざるをえなかった歌人である。歌集に『雪祭』(1939年)があり、没後『叢』(1955年)が出る。長男忠彦の妻である穂積生萩の編集による『穂積忠全歌集』(1984年)がある。三男隆信は、俳優として活躍、『積木くずし』で有名になった。

穂積忠は國學院大學高等師範部を卒業、折口信夫のすすめにより直ちに長野県立松本高等女学校に赴任。その時の校長が土屋文明であった。関東大震災を契機に地元静岡県立三島高等女学校に転任、以後伊豆の中学校、さらに高等学校の校長として在職中に没す。

短歌のみならず長歌、さらに連歌に長じ、迢空とともに柳田国男、土岐善麿、荻原井泉水らと度々歌仙を巻いている。

この一首は「通夜」と題する16首のうちにある。白秋亡き後、迢空により親愛を深めていた穂積であった。その死をどう受け止めたか。大井出石の折口宅で9月4日午後7時より、通夜はおこなわれた。

 

かなしみを あへて言はねど、かなしみにいきどほろしき 顔ふえきたる

この友も遠くより来し、同じこの深き悲しみに振りあららけく

怒るがに 言葉もあらずむかひゐし。このかなしみの中に 相逢へり

通夜の夜は、またく明けたり。はたらきて 悲しみ耐へむ。庭掃かむ 友よ

壮年(さだ)すぎてなほ 師のいますうれしさは、人にも言ひき。いまはあらずも

 

穂積は、国学院で高崎正秀、今泉忠義らが同級、西角井正慶、藤野岩友は一級上だったという。そうした旧友たちが通夜には集いよってくる。中には地方から駈けつけて来る古い弟子たちもいる。突然の師の知らせに動揺を隠せず、これらの歌のような行動、心情を共有していたのであろう。

穂積は、この一月ほど前に箱根の叢隠居に衰えた師迢空を見舞いに訪れて、歌を残している。その時は、それほどに深刻な状況とは受け止めていなかったようだ。

 

山の家(ヤ)の ふかきねぶりの、あかときにさめて、ひとりを――とらつぐみ鳴く

壮年(サダ)すぎて いまだ師をもつよろこびを 独り言ちつつ 昨夜(ヨベ)はねぶりし

 

その時の歌である。「壮年すぎて」師の健在である喜びが、たちまちにその師が亡くなった。その悲しみやいかばかりであろうか。そして通夜の師の家に集まってくる同じ悲しみに暮れた友たち――

その悲しみが穂積忠の体調をも崩したのであろうか。翌年2月、折口博士記念会世話人会のために上京、角川書店などに立ち寄って帰宅。その夜、胸部の苦しみを訴えたまま永眠。急性心臓衰弱、53歳であった。

今日のこの一首は「通夜」、副題に「先生逝く その一」とあったのだが、「その二」はとうとう歌われることがなかった。さながら師に殉じたかのような急な死である。