一ノ関忠人


今日にかけてかねて誓ひし我が胸の思ひを知るは野分のみかは

森田必勝「辞世」(1970年)

 

1970(昭和45)年11月25日、三島由紀夫と共に東京市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監室に総監を拘束したのは4名の「楯の会」のメンバーだった。森田必勝、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖である。いずれも若い。その4名も辞世の短歌を残している。森田の辞世が、今日取り上げた一首だが、後に述べる。その前に他の3名の辞世を紹介しておこう。

 

火と燃ゆる大和心をはるかなる大みこころの見そなはすまで   小賀正義

雲をらびしら雪さやぐ富士の根の歌の心ぞもののふの道     小川正洋

獅子となり虎となりても国のためますらをぶりも神のまにまに  古賀正靖

 

いずれも稚拙ではあるが、幕末維新期の志士の辞世に範を採った述志の短歌である。決起の準備に集まったホテルの一室に苦労して詠んだという。間近に迫る決起への緊張と真摯さが伝わってくる。三島の手が入った辞世もあるようだ。

小川の歌に「富士の根」とある。彼らは何度も自衛隊に体験入隊している。その多くが静岡県滝ケ原駐屯地であった。富士山の裾野である。その経験が小川の歌にかかわっているのではないか。その駐屯地には、三島の歌碑があるという。

 

深き夜に暁告ぐるくたかけの若きを率(ゐ)てぞ越ゆる峯々

 

この一首が刻まれている。「くたかけ」は、鶏の古名。鶏鳴は暁の知らせである。この三句目までが「若き」を導く序詞=序歌的な表現になっている。暗夜に暁を告げる一声を放つ鶏のように、未来をひらきゆく若者たち、彼らを引き連れていまだ夜明けぬ峯々を越えてゆく、そのすばらしさよと言ったところだろう。小川の詠んだ辞世には、この歌が反映していないだろうか。

そして森田必勝の辞世の歌である。森田だけが、三島と共に自決した。三島は、当初自分だけが切腹するつもりであったようだ。しかし森田は肯んじなかった。この事件は、勿論三島が立案、主導したことに違いはないが、森田の存在が予想以上に大きかったのではないかと言われている。森田との出会いがなければ、この企ては全うされなかっただろうと。

生き残るように指示した小賀正義への「命令書」がある。「今回の事件は楯の会隊長たる三島が計画、立案、命令し、学生長森田必勝が参画したるものである。三島の自刃は隊長として責任上当然のことなるも、森田必勝の自刃は自ら進んで楯の会全会員および現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範をたれて青年の心意気を示さんとする鬼神を哭かしむる凛冽の行為である。/三島はともあれ森田の精神を後世に向かって恢弘せよ。」

「三島はともあれ森田の精神を」「恢弘せよ」と訴えるこの文章の迫真の美しさは比類がない。森田のその日の行動を想像のうちにえがくといっそう哀切に胸が苦しくなる。三島の介錯を委ねられたものの二度太刀を振り下ろすが果さなかったのは、この戦後生まれ25歳の青年の心の美しさ、優しさのあらわれであろう。介錯に使用した軍刀仕立ての関孫六兼元は、真ん中より先が衝撃でS字に曲がっていた。そして、残された証言においても、この日の森田は普段の豪放闊達な表情を失い、どこかぎこちなく、無口であったという。

総監を拘束し、バリケードを築こうとして自衛隊の幕僚たちと小競り合いになったとき、森田は短刀で応じた。しかし、その短刀は自衛隊員に奪われている。そして三島の介錯を果せず古賀浩靖に「浩ちゃん頼む」と依頼、その後自分も腹を切り、「まだまだ、よし」の合図でこれも古賀の一刀のもとに首を落とされた。死への緊迫は、体育会系肉体派の明朗な青年の心と身体の自由を奪っていたのだろう。

森田の辞世の短歌は、ご覧のとおり無骨ながら強い印象がある。当時の右翼学生に人気があったという幕末の平野國臣の「わが胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山」が参照されていることは見やすい。「今日にかけて」森田は「かねて」、つまり以前からひたすらに、一直線に生きてきた。その思いの真摯さがこの歌の強さを支えている。さらに、この歌を強いものにしているのは、古語の使用である。「野分」は、秋から冬にかけて吹く暴風、台風をさす語だが、ここには風吹きすさぶ荒野に立つ孤高の男の姿が映る。そして、もっとも驚かされるのは結語の反語の助詞「かは」である。「私の思いを知ってくれているのは、荒涼たる烈風だけであろうか。いや……。」後につづく者を期待しながらも、今行動せざるを得ぬ者の絶対の孤独がここにはある。

これらの古語は、そうたやすく用いられる語ではない。「かねて」や「野分」はともかく「かは」を使いこなすことができる歌人が、そう沢山いるとは思えない。ひょっとすると三島の示唆があったのかもしれないが、死を覚悟したものにのみ訪れる恩寵のようなものではなかったか。短歌の定型をなぞっているとこうした稀有の訪れがあることは、たとえば戦争末期の軍人の歌などに例を見いだすことができる。以前紹介した(8月30日)牛島満の辞世などが思い浮かぶ。死の意識が、そうした奇蹟をもたらすのであろうか。

中学生の私に何が分かったのかは、既にそれから半世紀近くを経た今となっては判然しないが、それこそ老人の風雅な趣味だとばかり思っていた短歌が、生きた言語として血なまぐさい官能をともなって私の意識に流れ込んできたのは、三島と森田の行動と辞世であったことは、今まで何度か書いたとおりである。