煙草の火貸して寄せ合ふ顔ありき あれは男の刹那の絆

春日いづみ『八月の耳』(2014年、ながらみ書房)

 最近はこのようなことは殆ど見ないが、以前は街角での日常的な光景だった。煙草を吸おうと思ってポケットを探ると、煙草の箱はあるのだが、生憎とマッチもライターもない。たまたま近くに煙草を吸っている人がいると、たとえそれが見知らぬ人であっても、「すみません。火を貸して下さい。」と言いながら傍による。相手の男も「どうぞ。」と言って火を点けさせてくれる。その場合、お互いに顔を寄せ合って、それぞれの口の煙草の先端同士を接触させて火を移す。その時、お互いにそれぞれの煙草を吸いながら接触させる。その方が、火を貸す方は煙草の先の火の勢いが増し、借りる方も自分の煙草に火が移りやすい。

 それにしても「火を貸す」というのは少し不思議な表現だと思う。貸す方は相手の煙草に火が付くまでの間、吸ってはいるもののそれは自分のために吸っているのではなく、いわば相手のために吸っている。つまり、自分の煙草の火を一時的に相手に自由にさせる。それが丁度、本を貸す、CDを貸すのと同じことだというで、「貸す」という表現が生まれたのであろう。

 さてこの一首、「き」という過去の助動詞を使っているので、作者もやはり、昔そんなシーンをよく目にした、と回想している。そして、それは男同士の絆だとは思うのだが、「刹那の絆」だと言っている。「刹那」は本来、仏教用語であり、一指弾(一回指を弾く極めて短い時間)の間に65刹那あるとされていた。つまり、指を鳴らして「パチン」という音がする一瞬を更に65等分した一つが「一刹那」であるというから、とんでもなく短い時間である。もっとも、現代ではそんな定義は忘れてしまって、単に「短い時間」という意味で使われており、短歌でもよく使われる言葉である。。しかも往々にして「刹那的快楽」などというように、余り良い意味で使われない時もある。そしてここでも、作者が「刹那の絆」と言ったところに、男たちが連帯だとか絆なだとか言っていても、所詮は刹那的なその場限りのものなのだという、多少冷ややかな気持ちが感じられる。懐かしい光景ではあるが、女性の男性に対する批判的な視線が感じられる一首である。

    本日のわが寛容は何グラム銀の秤に静かに揺れて

    にんげんのこどもはつらいね語尾を引き蟬が励ます宿題の子を

    蠟燭の炎の揺れて夏至の夜の蛍スイッチ飛びゆくごとし