経塚朋子『カミツレを摘め』
(2016年、ながらみ書房)
なかなか考えつかない疑問です。
なんとなく、古生代といえば手つかずの自然(?)、自然といえば鳥のさえずり、と連想がはたらきますが、古生代はいま私たちが生きものと認識できるものたち、魚から両生類、昆虫の発生、植物の繁茂あたりにかけての時代。
大きな動物も、鳥もまだいないはずなので、サウンドスケープは当然異なります。そもそも音を聴こうとする意思をもつ人間がいないので、音という概念が存在しないのですが。
そこに音を想像してみる作者にとって、世界とは鳥のいる場所であることが、下の句から窺われます。日ごろ鳥の声に耳をかたむけているからでしょう。
この歌の発想はさほど突飛ではなく、生活感を伴うものと感じられます。
沈黙もまた歌ならむ天恵の雲雀さへづる野をよぎりゆく
ヒバリのさえずりを好ましく聴きつつ、自分は黙っています。しかしその沈黙もまた歌であろう、だから、うたっていようがいまいが自分はいつも歌そのものだ、と言挙げしているように見えます。
あるいは、黙っているのが空であるなら、天も地も、世界が歌そのものだというふうにも。
波うちぎはにつづく小鳥のあしあとにならべてわたしもあしあとつける
去去 去去去 去去去 去去去去 たいせつな人をなくして夜のほととぎす
陶芸やガラスにかかわる仕事の歌、家族や旅の歌など身近な題材も多い歌集のなかから鳥の歌を拾ってみると、死を扱ってなお明るく、世界、存在への信頼感が伝わってきます。