ばうばうと風にかがやくのみにして水を噴かざる噴水群よ

押切寛子『抱擁』(平成24年、角川書店)

 この作品の前に「水噴かぬ噴水園に我を連れてゆきし人あり冬のころなり」という作品が置かれている。そういえば、冬の噴水はあまり見たことがないように思う。想像するだけでも、いかにも寒々とした印象であり、第一、寒冷地では凍結の問題などがあるので、噴水は動かさないのではないだろうか。

 一方、夏の噴水は楽しい。最近の噴水はコンピューター制御で、音楽に合わせて水が位置や高さを喧嘩させて、リズミカルに上がったりする。余談ながら、日本で最初に噴水は江戸時代に金沢の兼六園に設置されたもので、これは動力を使わず、水源との高低差を利用して噴きあがるようになっている。世界で一番高く噴き上がる噴水は、資料によっても異なるが、サウジアラビアのジェッダ沖の紅海上にある「ファハド王の噴水」と言われており、海面から260メートルとか312メートルとかと書かれている。この噴水は、普段は首都リヤドに居る国王がジェッダの離宮に滞在している時にだけ噴き上がる。筆者も見たことがあるが、紅海上に一直線に立ち上がる高い水の柱は実に強直で素晴らしい。

 この一首の中で「噴水群」と言っているのは、池の中に設置されているステンレス製のノズルであろう。池の中に幾何学的に配置された沢山の銀のノズルが風に吹かれながら輝いている。美しい光景であるが、作者はそれは「水を噴かざる噴水群」なのだと言っている。本来は水を噴き上げることが機能であるはずのノズルが、その機能を果たしていないのだ。その時にノズルたちは意外な美しさを見せている。何か不思議な気がする。

 「ばうばうと」という濁音での入り方は力強さを感じさせ、「のみにして」という惜辞が一種の覚悟のようなものを感じさせる。更に、最後の「よ」という呼びかけとも確認とも取れる間投助詞が深い余韻を漂わせている。

     夜の卓の紅玉林檎たましひのごとし魂を見たことなけれど

     しろがねの帆柱のごとくおほいなる冷蔵庫据ゑしは四月吉日

     羽化したるばかりの百の自転車の吊されてありガラスの壁に