げんげ草一[ひと]とこいたく伏してあり若者たちの角力[すもう]とりしあと

出口王仁三郎『白童子』(昭和7年)

※笹公人編『王仁三郎歌集』(2013年、太陽出版)より

 

大本教の教祖・出口王仁三郎は、生涯のある時期から一日に数百首の短歌を詠むようになり、15万首以上の歌をのこしたといいます。そのなかから1930年代、作者60代のころに刊行された歌集中の328首を選んだ、と笹公人さんの解説にあります。

選歌の大変さはもとより、そもそも王仁三郎の短歌に心ひかれたことがもう、特殊な資質を示している気がします。編者とは「出会いの能力」に恵まれた人のことだと思いました。

そうした背景に圧倒されてしまいますが、この『王仁三郎歌集』は松尾たいこさんによるカバー画があかるくエネルギッシュで、内容も多くは物事のたのしげなスケッチ。

掲出歌はその典型で、すぐに情景が目に浮かびます。とはいえ、もし絵画や写真で見せようとしても、げんげの草がなぜこのような状態にあるのかを一目でわからせるのは案外むずかしそうです。

上の句と下の句のとりあわせで時間の経過と出来事を自然に語る、短歌ならではの技法をあらためて認識しました。〈一とこいたく伏してあり〉という描写がポイントでしょう。

 

一代や二代かかるもよめぬまでわが本棚はみちたらひならぶ  『山と海』

 

大量の著作がある人ほど読書量も桁違いと思われ、人生の密度はなぜ人によってこうも違うのかとため息が出そうですが、ところで、俳句作品もないではない王仁三郎はなぜ、主として短歌で日々の観察や思考を表現したのか。

表現というより呼吸。そんな短歌のあり方を感じます。