袖振りあふの多少の縁と五十年思ひ来たりて不便あらざりき

中地俊夫『覚えてゐるか』(平成23年、角川書店)

 原作は「多少」に傍点が振ってある。本当は「多少」ではなく、「他生」が正しい。”知らない人と偶々道ですれ違い、袖が触れ合うようなことがあっても、それは前世からの因縁なのだ”という意味の諺である。「他生」とは六道を輪廻して何度も生まれ変わることらしい。なお、私は「袖触れ合う…」と覚えていたが、調べてみると両方の言い方があるようだ。人によっては「多少」も正しいとする意見もあるようだが、それは多分、誤用が蔓延っているからというというだけではないだろうかと思う。

 この種の勘違いというものはままあることで、例えば「一生懸命」という言い方をする時があるが、これは「一所懸命」が正しい。日本の中世の武士が、自分の所領(一所)に命を懸ける(懸命)、という意味である。それが何時の間にか「一生懸命」となってしまい、誰も疑わなくなってしまった。現代ではむしろ「一所懸命」に違和感を覚えるくらいである。

 この一首、「他生」を「多少」と勘違いしていたということは滑稽なことであるが、もっと可笑しいことは、五十年間勘違いをしてきて全く不便がなかったということである。我々の人生というものは結構このように勘違いして、何十年も気が付かないことがあると思う。そして、それで全く不便がないことが多いから不思議である。

 この歌集、滑稽なことを大真面目に詠んでいて、とても面白い。諧謔もまた短歌の大きなテーマであろう。

     携帯をせぬケータイに時をりは充電をして柱にもどす

     ハーフですか、はいハーフです、幾たびも聞かれて答へて子守にも慣る

     「七十歳のコンビニ強盗」といふ見出し付けられてゐる男のあはれ