魚村 晋太郎


耄(おいほ)けてぬくもりがたき床ぬちに入るるを思へはだか童女(わらはめ)

高橋睦郎『虚音集(そらみみしふ)』(2006年)

耄は耄碌(もうろく)の耄。
耄倪といって老人と子供をあらわす熟語もある。
おいぼれる、とも読むが、おいほけて、と読ませたところに味わいがある。
床ぬち、は床の内、つまり布団のなかのこと。

晩秋の樹樹が葉をおとすように、老いをかさねるとともに、記憶や知識ははらはらと失われてゆく。
からだの代謝もおとろえて、体温もひくくなる。
そんな、虚(うろ)をかかえた冬の樹のようになった自分に、はだかの少女を添い寝させる。
おとろえはてたからだと、これから成熟しようとする熱くやわらかな肌。
思い浮かべてくれ、という仮構の話であるが、こんなにうつくしい、神話のような老いの歌はいままでにみたことがない。

一首の主人公は、子や孫のいないひとだろう。
作者の実人生のことはさておき、じぶんの子や孫を抱いたことのないひとの感じ方だと思う。
そう読んだほうが、老い人と少女の対比が際立つ。
そこには、ロリータ・コンプレックスなどとは無縁のさびしさと清清しさがある。

虎は死して、という諺があるいが、ひとは死んで様様なものを遺す。
すぐれた詩人の言葉は何世紀かにわたって遺され、愛されるにちがいない。
賢者の言葉はのちに生きるものの光となり、生きるものを助けるだろう。
しかし、言葉は命そのものではない。
あたらしい命を産み出すのは、詩人の仕事ではなく、母親にのみできることだ。
一首にもまた、いのちの果てのうすあかりが差している。