セイロンの紅茶淹れつつ思ふかなこの葉を摘みし人の指先

橋本喜典『行きて帰る』(2016年・短歌研究社)

 

この頃、カフェでメニューを見ると、コーヒーや紅茶、緑茶までも、産地がブランドになって記されている。時代の傾向なのだろう。そのためか、食材から産地を連想する短歌作品にときおり出会うようになったが、この歌の、スリランカで産する紅茶の「セイロン」は、商品名やブランド名から生産地の連想を誘うだけにとどまっていない。

 

歌い出しはふつうに紅茶の種類で始まりながら、「セイロン」は下句で、「人の指先」が働く空間へとふくらんでゆく。作者の脳裏に、ゆっくりと静かに茶畑が「場」として広がってゆくのである。「場」という自ずからの広がりが大事なところである。

 

「つつ」とあるから、淹れては思い、淹れては思うのだ。茶畑で働く人がいて、その指の先に摘みとられる葉を思う。その一枚一枚が紅茶になって、遥かに海をわたってきてここで香っている。名も知らぬ市井の人々に思いをよせる橋本喜典の人柄をよく語っている。さらにもう一つ、物事を連続させて捉えるということがあるだろう。

 

砂時計の砂さらさらと啄木の指の間を落ちて百年

葱に土かぶせて庭の一隅を深谷の畑のつづきとなしつ

 

なども同じ発想で、時間的にも空間的にも、繋がってゆこうとするのである。何のかかわりもない「セイロン」と、会ったことも無い「啄木」と、葱の縁でつながる「深谷」。おそらくこれは、次のような、歌は調べだという理念とも関わっている。

 

古人曰く 理ならず調べなり 歌は とわれも記さむとする