光森裕樹


初雪が降ったみたいに顔を上げおそらく震度3のファミレス

神谷俊太郎「雨天決行」(『外大短歌』第7号:2016年)


(☜9月4日(月)「学生短歌会の歌 (9)」より続く)

 

学生短歌会の歌 (10)

 

初雪を見上げるように、顔をあげる。かといってここは屋外ではなく、ファミレスの中で、地面の揺れを感じただけだ。天井から吊り下げられた電灯や掲示物が揺れているのが見える。どうやら震度3といったところか――
 

店員を含めて考えれば、店内に主体一人ということはないだろう。ファミレス内の誰もが一斉に天井を見上げている光景が目に浮かぶ。その光景を、初雪を見上げる様に例えた上の句は詩的で美しいだけに、そこから、感じた地震を確かめただけだった、という下の句への落差が激しい。「おそらく」というもったいぶった言い方も、どこか滑稽さを滲ませる。我々は何故、震度を当てたがるのか。
 

…と書きつつ、「落差」という表現でいいのかという迷いも一瞬生じた。いくつかの大きな地震とそれによる大きな被害を体験した今の日本において、「地震」を詠むことには神経を尖らせることが求められ、読み手にはそれを的確に感じ取ることが求められやすいと感じてきたからだ。
 

掲出歌には、そのような地震を詠む/読むときの緊張感がない。そのことに良し悪しはなく、私にはただひたすら新鮮に感じられた。歌の読み方も、当然時代の出来事に影響されるものなのだと気付かされる。
 

神谷の歌は言葉の繰り出し方に特徴があり、奇妙な捻じれが印象に残る。掲出歌以外にもいくつか引いておきたい。
 

枕より枕カバーがしょっぱくてベッドタウン支部からは以上です

 

枕と枕カバーを齧り比べたのか。しょっぱさは、涙で枕を濡らすということを暗に示しているのか。まるでわからない状況に「ベッドタウン支部」という、これまたよくわからない組織(?)が登場し、事務的に「以上です」と報告がなさる。一首はそこで一方的に打ち切られる。「枕」と「ベッド(タウン)」には言葉としての縁語的関係を認めつつも、「いや、ベッドタウンでなくても枕はあるだろう」と読みが深みに嵌まる前に思いとどまる。
 

降りかけの踏切くぐる デッドオアずぶ濡れにならないでアライブ

 

いつ電車がきてもおかしくない状況で踏切を渡ろうとする。生死が掛かった状況でありながら、「デッドオアアライブ(dead or alive)」という英語が気取った口調で登場し、さらには「ずぶ濡れにならないで」という言葉が挿入される。この緊張感のなさはなんであろう。
 

一首を何度か読み返すうちに、要するに雨が降ってきたので、ずぶ濡れになる前に踏切を無理やり渡ろうとする、ということだと分かる。「渡れずに轢かれて死ぬ」あるいは「ずぶ濡れにならずに生きて帰る」のか。天秤に掛けられたものは、そもそも比べてはいけないものではなかったか。
 

もしかして、連作名の「雨天決行」とは、「雨の中で踏切を渡ることを決行する」ということを意味しているのか、と思う。いやいや、「雨天決行」とは本来そういう意味ではないのでは…と思った時点で、すでに作者の術中に嵌っているのだろう。
 

寝過ごして着いた知らない駅の名が案外嫌いじゃなくてタクシー

 

電車かバスか。うっかり車中で寝てしまって知らない駅につく。その駅名がなんだか素敵で…というステキな話のはずが、そこから一転して正しい目的地に帰るために「タクシー」にそそくさと乗り込む。もっと素敵な名前の駅周辺を歩いてみたり、喫茶店で一息入れたりしてもいいのではないか。限られた文字数の短歌において、何をそんなに急ぐのか。
 

末恐ろしいものを見せられたような連作であった。
 
 

(☞次回、9月11日(月)「学生短歌会の歌 (11)」へと続く)