平岡直子


坂道を上った先の消防の間口の広い建物に塔

牧野芝草『整流』(六花書林:2012年)


 

この歌が成し遂げている種類の無欲さを、短歌のなかでみせることの難しさを思う。最近ある批評会の会場発言で奥村晃作が「歌はこれでいいんですよ」「歌はこれでいいんですよ」と二回も言ったことが、奥村晃作の会場発言がいつもそうであるように印象に残った。歌はこれでいいんです。短歌にはなにかを言えるほどの長さはないけれど、なにも言わないという表明や短さに対する挫折で満たすことがいちばん饒舌だったりもする。
掲出歌の無欲、あるいは無口な印象の理由は、まず人間の気配がさっさと退場することにあると思う。「坂道の先の」ではなくあくまで「坂道を上った先の」と書かれた「上った」から感じさせられる身体性は、感じさせられた矢先に上二句で途切れる。歌のつくりとしてT字路だし、おそらくこの坂道を含む地形がそうなのだろう。逆にいえば、「上った」が置かれていなければ視線の動きという疑似的な身体性によって神経が結句まで通り、この歌の三句目ですっと紙飛行機が手から離れるような印象はなかったかもしれない。途中に行き止まりがあることが、たとえば最後の体言止めの「塔」が重くなることを防いでいる。「消」して「防」ぐ三句目がそれまでの身体を消し、下句の「間口を広」げているようだ、と読むのはおもしろがりすぎだろうか。
下句のこの簡略な説明からひとつの光景を思い浮かべることができるのは、あたりまえだけど消防署をみたことがある者である。消防署のあの大きな車庫のようなつくりと、その建物の上の望楼。消防署をみたことがなかったり、意識に留めたことがない読者が仮にいたとしたら、「消防」と「間口の広い建物」と「塔」はばらばらのものにみえるだろう。ばらばらだったかもしれない言葉同士のつながりの必然性が一首のなかに内在するわけではなく現実の景色に準拠していて、そしてそれ以外の根拠は見出せない。現実の景色と言葉の間になにかニュアンスを挟もうとしたらこの下句はふたたびばらばらになってしまう。だから、この下句は歌に直接書き込まれているように感じられる。
写実とよばれる表現が歌のなかで象徴的な意味を負う場合、それは役割としてはほとんど喩である。短歌の写実の可能性とは景色と言葉の類似性を指摘することにこそあるのだと思わせてくれる一首である。