染野太朗


口内炎舐めつつエレヴェーター待てり次の会議に身を移すべく

島田幸典「竹の葉」(「八雁」2018年5月号)

 


 

この感じわかるな、こういうことするよね、と思うのだがそれをことばで説明しようとするとなかなかむずかしい。この「口内炎舐めつつ」には、人の心情や行動の説明しがたい微妙なところが出ていると思う。

 

「次の会議」とあるから、この直前にも会議があったのだなとわかる。階数表示が移っていくのをおそらく見上げながら、口内炎を舌でさぐりつつ、エレヴェーターを待っている。次の会議に身を移す「べく」だから、そこには自覚できる意思があって、次の会議の「ために」エレヴェーターを待っているわけだが、わざわざ口内炎に触れるのも次の会議の「ための」自覚的なものかと言えば、ことばの上からはそこまでは断定しにくい。なにげない行為としてそれがあらわれてしまっている可能性もある。

 

まず、前の会議になにか引っかかるところがあったのだろうな、と読む。その引っかかるところを反芻するようにしてなんとなく口内炎をさぐってしまう、というふうに読める。気になるところにいつまでもなんとなく触れてしまうという(ごくわずかに強迫性にも通じるような)、無意識的に出てくる動作。あるいは、気持ちを切り換えるためにわりと意識的に、心身にちょっとアクセントをつけるような感じで痛みをさぐっている、ということかもしれない。じっと会議に身を置いてのぼせたような、あるいは納得しきれなくてもやもやしたような感じから、自分の心身を取り戻す動作、というか。夢じゃないよねと言って頬をつねったり気合いをいれるために頬を打ったりするあの感じ、というか(このとらえ方はちょっとすこやかすぎる気もするけれども)。

 

いずれにせよ、口内炎のあの痛み・違和感という感覚において、自らの身体を確認しているようなところはあると思う。その確認にはどういった意味が含まれるのかというのが、説明するのになかなかむずかしいところだ。でも確実に、人というもの(の行為のありよう)の一面をとらえている。

 

口内炎を舐める、という〈身体の感覚〉に寄せた表現は、「身」を移す、という結句の措辞ともことばの上で響き合う。それから、上に「エレヴェーター」となにげなく記してしまったが、この(「ベ」でなく)「ヴェ」あたりを中心にしたややしつこい音が、「舐める」という語や(ちょっとストレスのある)心情と、やはり響き合う。「ヴェ」の音は、結句の「べ」くという音がさりげなく引き受けており、その音のねばついた重たさは歌の最後まで保たれている。エレヴェーター「を」待てりとは言わず、助詞を除いて定型感を保ちながら句跨りの異物感がやや残るあたりも、歌の気分を引き出していると思う。となると、その気分として、前の会議や、会議が続いてしまうことに対するちょっとした苛立ちのようなものまで読んでもよいのかもしれない、とも思う。疲れもありそうだ。……よし次の会議もがんばるぞ、というのではないと思うのだが。

 

こうやって読んでみると、一見するとたいへんシンプルに思える一首のなかで、さらっと読み通してしまうのではもったいないくらい、語(句)同士が意味の面でも音や機能の面でも緊密に繋がれていることがわかる。しかも、前の会議と次の会議という前後の時間と、現在の「待つ」というふくらんだ時間が見えてくる。歌が抱えこむ時間は、一首のシンプルな構成に比して、思いのほか厚みがある。口内炎の痛みが目立つとはいえ、「待つ」ときの姿勢やその後の移動のようすなども想像させ、身体のありようをゆたかに感じ取ることもできる。歌をくりかえし読むうちに見えてくるものが多く、じわじわと驚きがひろがるような歌だった。

 

ところで、口内炎と言えば、僕には内山晶太の歌も親しいので、よい機会だからここに記します。島田や内山のように歌で口内炎と向き合えたら、口内炎を許せる気がする。

 

口内炎は夜はなひらきはつあきの鏡のなかのくちびるめくる/『窓、その他』
口内炎はつづまるところ炎にて夜を徹してくちびるが燃ゆ/「たべるのがおそい」vol.5

/内山晶太