平岡直子


CASAからわたしの部屋のベランダに干した真っ赤な布団が見える

玲はる名『たった今覚えたものを』(BookPark:2001年)


 

わたしが「CASA」というファミレスを知ったのはごく最近のことで、マイナーなファミレスというのはどうしてこんなに気持ちをかきたてられるものがあるんだろう。マイナーなコンビニにはぜんぜんかきたてられない。マイナーな喫茶店チェーンはちょっといい。「ぽえむ」とか。でもファミレスには勝てない。静岡県に行ったらぜったいに「さわやか」には入ろうと思っている。いったいどういう名前なんだ、と思うけれど、静岡県民にとってはごく自然な固有名詞なのであろうその感覚を想像するのも興奮する。店のなかに入ってわたしも「さわやか」を記号として味わいたい。
CASAのよさはただマイナーなだけではなく、どうやら都落ちしたファミレスらしいということだ。わたしはしらない時代だけど、バブル期に高級志向のファミレスとして全国にかなりの店舗数を展開していたらしい。今のロイヤルホストみたいな感じか。バブル崩壊後に数が減り、経営方針が変わり、わずかな店舗が残り、わたしは先日やっと存在を知った。ネットで検索したら「ファミレス界のツチノコ」と評してる人がいた。ツチノコ! 文脈が固有名詞よりも先に滅びた。うちの徒歩圏内にたまたま一店舗あったCASAに足を運んだら、安っぽい明るさで広々としていて空いていて、市役所のなかの食堂のようだった。
時代だけじゃない。地形も街並みもどんどん変化する。〈このとき〉CASAから布団がみえるのは、あいだにさえぎるものがないからで、そして、目印になるほど布団が赤いからだ。ねむるときに血や粘膜の色で包まれている必要があったからだ。自分の部屋を遠くからみるのは自分自身を遠くからみるようなもの。自分が同時に二ヶ所にいるような、どちらにもいないような。CASAからの視界をさえぎる建物がひとつでも建てば、その感覚は消えるだろうか。たった今覚えたものなんて、インクの色がどれだけ赤くてもメモした瞬間に忘れてしまう。メモをとった手の動きの残像だけがすべてだ。
わたしとわたしのあいだに寝食しかない透明な瞬間をいつまで覚えていられるだろう。街全体が自分であるかのような全能感と、それゆえに風通しがよすぎて自分のなかにいつもすき間風が吹いている不全感のセットをいつまで覚えていられるだろう。「CASA」はすでに存在そのものが昔話だ。文体が固有名詞よりも先に滅びる。だから、人に「その気持ちわかるよ」と思わせたら終わりだ。勝負は滅びてからだ。

 

街という大きな布団に包まれて電車の窓を枕に眠る/玲はる名