染野太朗


コスモスが咲いているのは母校なる小学校の脇の道なり

萩原慎一郎『滑走路』(角川書店、2017年)

 


 

『滑走路』はすでにさまざまにとりあげられていて、例えば、

 

非正規の友よ、負けるな ぼくはただ書類の整理ばかりしている
シュレッダーのごみ捨てにゆく シュレッダーのごみは誰かが捨てねばならず
頭を下げて頭を下げて牛丼を食べて頭を下げて暮れゆく

 

といった歌や、萩原がこの歌集の入稿後に急逝したということとともに語られることは多い。その人生のありようそのものとのかかわりで読まれることもあるようだ。しかしどうも、そのような語られ方をすればするほど、自分がこの歌集を最初に読んだときの印象とはなにかがかけ離れていく感じがする。

 

「現代短歌」2018年5月号で土岐友浩が、

 

かっこいいところをきみにみせたくて雪道をゆく掲載誌手に

 

について、「この歌は、すごい。本当にすごい。/少なくとも僕は、とても萩原さんのように、自分の歌を「かっこいい」と誇ることなんてできない」と感嘆と敬意を込めて言う。もしかしたら、

 

ぼくにとってのあなたのごとく黄金に光る太陽夕空にあり

 

といった歌に僕が感じたものと土岐の言っていることは近いのかもしれない。この歌、最初に太陽があってそのまぶしさに「あなた」を思った、のではないと思う。「黄金」という語でしか表せないような「あなた」がいて、だからこそそこに「黄金」の太陽がある。「黄金」であることを見ている。「黄金」という語は一見すると安易でさえあるが、ここにこめられた思いにはほとんど途方に暮れるような力強さを感じてしまう。「ごとく」「黄金」あたりの音の構成にもその理由はあろう。土岐は「萩原さんの歌には、一切の屈託も、虚栄もない。その姿は、ほとんど崇高でさえある」とも言う。

 

ただ、僕がこの歌集を読んでずっと気になっているのは、例えば、

 

林檎、その木から落ちたる瞬間を見てしまいたり台風の日に
桃食めばひとつの種が残りたり 考えていることがあるのだ

 

といったような歌。一首目、「台風の日に」が結句で特に強調されているから、なにか特別にたいへんなことがあったとき(台風)に自分のなかで決定的に変化したものがあった(林檎が落ちた)、と一首全体を心情の喩としてとらえることも可能だと思うが、まずは実景として読む。「どうしてもニュートンの林檎が思い浮かぶなあ」「台風の日だからそういうことがあっても特別なことではないよな」と理屈をもってこの歌を読めば、特徴の見い出しにくい歌かもしれない。けれどもどうにも、見て「しまい」たり、という、見てはいけないものを見て「しまった」ような感じ、台風なのだからそれがあってもおかしくないときに、ことさらにその偶然を重たく受け止めてしまう感じ、が気になる。「台風の日に」という日記のような描き方には、これを目の前のできごととしてではなく、振り返って記しているような感じがあるけれど、それでもその視線には臨場感があると思う。そして大事なのは、「見てしまいたり」は、林檎に対するものではなく、それが落ちる「瞬間」に対してのものだということ。二首目、山崎方代の歌のようなニュアンスがある。いつまでも考え込んでしまうような対象が桃にもあるのだ、その具現化されたものとして桃の種があるのだ、自分にもそういった、いつまでも心を離れないようなことがあるのだ、と読めばよいだろうか。やはり見ていると思う。しかも、種を見ているのではなくて、それが「残りたり」ということを見ている、と思う。

 

「瞬間」や「残りたり」というのを見るところに、心情がかすかににじむ。林檎が最初から落ちていれば、あるいは、「落ちる」ということに心を寄せる理由がなければ、また、なにか考えていることが自分になければ、それらは「見る」の内側に入ってこなかったかもしれない。

 

今日の一首も、見ている。「コスモスが咲いているのは」「脇の道なり」と、コスモスの景を中心に提示しているようだが、この一首が見つめる先にあるのは「母校なる小学校」だ。「母校なる小学校」ということが、「瞬間」や「残りたり」のように思えてくる。どうしてことさらに「母校」であることを言うのか、その理由は、この一首が含まれる連作で、

 

母校なる小学校があることは変わらずぼくは大人になった
いつまでも少女のままのきみがいて秋の記憶はこの胸にあり
あのときの居場所が今の居場所ではなくなっている冬の公園
ここでなくもっと太陽の照らす場所探して冬の公園を出る

 

といった歌によって、居場所を求める気持ちや郷愁が詠まれ、種明かしされてしまうのだが、それでもなおこの一首の「母校なる小学校」は、決して特殊な景ではないにもかかわらず、存在感を放つ。種明かしをされなくとも、そこになにか理由があるのだと感じさせるし、それに対して読者としていくらでも想像を広げることができる。

 

僕が言っていることは、あるいは「写生」ということのオーソドックスなありようなのかもしれない。しかし僕は土岐の言う「一切の屈託も、虚栄もない」を、この歌集の「見る」ということにおいてこそもっとも感じる。見る、ということそのものに対するまっすぐさ、ためらいのなさ。しかもそれは、対象のなにかを暴くようなものではない。自らを暴くということでもない気がする。自他を「見る」「見つめる」ということをしている。過剰に力を込めて観察する、抒情を導き出す、また、ありのままを見る、というのともちがう気がする。「見る」「見つめる」ということそれ自体を、リアルに、まっすぐに感じさせる。

 

迷わずに「肉」と答えるぼくがいる「肉か?魚か?」などと聞かれて
焼かれておいしくなる肉がわが眼前に運ばれてくる ステーキ屋にて/萩原慎一郎