あなたへとつづく明るき階段の真ん中ばかりすりへつてゐる

熊谷純『真夏のシアン』(短歌研究社、2018年)

 


 

あなたの住んでいるアパートの部屋へと続く階段、といったように実景としてとらえることもできるとは思うが、それでもやはり「あなたへとつづく階段」はちょっと抽象寄りの表現だから、具体的な場面としてでなく、この一首全体が「あなた」との関係の比喩になっていると読むのがよいと思う。そして、この一首だけをとりあげるならば「あなた」を恋の相手とはかならずしもとらえる必要はないはず。とにかく「あなた」と呼ぶべきひとがいる。そのひととかかわろうとするとき、そこには明るいひかりが射す。この場所を行けばよい、という確信だろうか。

 

まず、「真ん中ばかり」をどう読むか。恋の気持ちであれ何か別の思いであれ、「あなた」という存在へのまっすぐな思いはまぎれもなく、また、「真ん中」以外が視野に入っていることも確実で、にもかかわらずそこばかりを通ってしまうということだから、例えばそれを、この関係におけるいかにも不器用な感じがあらわれているのだな、と読んでもよいと思う。確信をもってそこを行きながら、でもそれだけがすべてではないことも見えている。とにかくいつでも同じような方法、同じような思い(の強さ)で「あなた」に向かってしまうのだろう。そして「すりへつてゐる」という描き方にも注目する。「磨り減る」だからやはり「消耗する、疲労する」といったようなマイナスの感じもかさねて読めると思う。不器用なことをくりかえす自分に疲れているのかもしれない、そういうやり方によって相手を疲れさせているのかもしれない、といったところまで想像できる。あるいは、そのような方法を(実直に)くりかえすことへの自負、かもしれない。

 

具体を引き込まず観念によって「思い」を中心に描こうとすると、修辞にかなり気を使わなければ、その「思い」はなかなか一般的な感慨の枠を超えていかないと思うのだが、この一首の場合は、「明るき」「真ん中ばかり」が必ずしもその内容を確定できず、また、「すりへる」という翳がその明るさを単純なものにはしない、という点において、読者それぞれの思いに応える懐の深さを備えている気がする。「あなた」は、読者にとっての「あなた」として、読者の数だけ無数に姿を変え得る(もちろん、歌を読む、というのはどんな歌においてであれそのような側面をもつけれども)。あなたへとつづくのが、水平方向のものではない、上ったり下ったりする「階段」だというのも、象徴性に幅があって読者を引き込む。

 

この歌を読めば読むほど、読者はおそらく自分と向き合うことになる。これまでに自分が築いた(あるいは壊したり消えてしまったりした)人との〈関係〉を振り返り、この言葉に沿うようにそれを再構築することになる。それによって新たに見えてくるものがある。平易な表現と構造だけれども、見逃せない一首だった。

 

行く先のちがふ言葉が重なりてポストの中でひと夜を過ごす/熊谷純