平岡直子


兜虫の背中おさへたる虫ピンを写して明るき昭和の図鑑

中野昭子『夏桜』(ながらみ書房:2007年)
※引用は『現代短歌文庫 中野昭子歌集』(砂子屋書房:2014年)より


 

一首の内容は紙の上で起こっていることだ。画像をデジタル処理できない時代の図鑑は標本の状態の写真をそのまま載せるしかなかったということだと思うけれど、カブトムシの背中の虫ピンにはなにか禁忌の雰囲気がある。外見的な特徴を説明するという目的に対してはノイズだし、残虐性もほのみえる。なにより、紙の外側にあるべきものが紙のなかに入りこんでしまっていることの座りの悪さがある。カブトムシについて知りたくてこの図鑑を眺めるときには、人は無意識に虫ピンは無視するだろう。(無視ピン)
紙の上で起きていることがこうして歌として歌集という別の紙の上に写しとられるときに、話の位相はすこしずれる。この歌の中心は虫ピンにある。発見として歌の題材を成り立たせているだけでなく、初句六音、二句目は八音、四句目も八音、この少しずつはみ出す音数を歌の真ん中できれいに押さえる三句目の「虫ピン」は一首にとっても虫ピンのようなものでありながら、しかし、ふたたびその役割から目をそらされるだろう。虫ピンに注目すると、短歌の言葉の死骸っぽさを意識させられてしまう。
同じ作者に以下のような歌があった。

悪い夢は脳の老化を早めるゆえ鏡に向きて笑えとテレビが

悪い夢/いい夢、睡眠/覚醒、鏡/そこに映る人、いくつもの対称性の暗示がありつつ、それぞれ片方を欠いたままに歌が進み、最後に一方的に喋りかけてくるテレビが登場するのは迷宮のようでちょっとこわい。掲出歌が置かれた二枚の紙のあいだの空間もこの歌に共通するものがあると思う。合わせ鏡のあいだになにも映らないすき間のような場所。
カブトムシ、昭和、図鑑、それぞれの単語にはどこか懐かしい匂いがあるけれど、一首のなかでノスタルジーは相対化される。ノスタルジーは安定した死に対して生じるもので、この歌で幾重にも反転させられるカブトムシは安定して死につづけているとは言えないからだ。

いい歌、空洞のなかを屈折していくような歌けっこう見つけたのでちょっと引いておきます。

にんげんが西へ西へとあゆみゆく向かいのビルの十七階を/中野昭子
この辻を曲がらず行かば鳥おらぬ鳥かご軒に吊す家ある
夏木立の暗き森へはまだやれぬこの子笑ふとまへ歯がなくて
太陽とわれとの間(あひ)を飛ぶ鳥が影を落としぬかたへの土に
電話帳が桜のはなのなかを通る春になるゆゑ混線してをり