染野太朗


腕時計ひかりをかへしいつのまにか半袖ばかり着てをれば初夏

栗原寛『Terrarium テラリウム ~僕たちは半永久のかなしさとなる~』(短歌研究社、2018年)

 


 

腕時計が光を反射している。それを「腕時計ひかりをかへし」と言い差して、そのまま歌がどこへ向かうのかと思っていると「そういえば半袖ばかり着ているな」という気づきが展開し、「半袖ばかり着るようになったのだから今まさに初夏といえるのだ」というふうに続く。「着てをれば」は、着ている「ので」というふうに解釈してよいはず(「をり」の已然形+接続助詞「ば」)。初夏だから半袖を着ている、半袖を着ているから(袖に隠れずに)腕時計があらわになっている、あらわになっているからその腕時計は光を反射する、というのが、この「初夏」の状況をアタマで、理屈で整理したときの一般的なとらえ方だと思うのだが、これはその逆。腕時計が光を反射しているのに気づき、半袖だからこうやって腕時計の光が見えるのだなと気づき、そういえばこのところ長袖は着なくなったな、そのような気候になっていたのだなと気づく、というふうに展開される。腕時計(の光)という一点を見て、次にその視覚は半袖を着ている自身の腕と身体に及び、すると視覚だけでない体感へと感覚がひろがり、その体感が今度は身体の外側へと大きくひろがっていく、という構造。読者はそれを追体験して、自らの体感をあたらしく経験し直すことができると思う。

 

このような、体感を起点にした、理屈とか先入観でないものごとのとらえ方や発見は、短歌としては決してめずらしくはないと思う。ただ、この歌を読んでおもしろいと思ったのは、一首を読み始めたときと読み終えたときとで、「腕時計ひかりをかへし」のニュアンスが異なるものだったということ。読み始めた段階では、「腕時計ひかりをかへし」は、発見や驚きといった判断・感情のともなわない、ごく客観的で冷静な描写であり、歌の人物にとってそれは自明の事実であると読めるのに、最後まで読むと、この上二句には、腕時計が光を反射していることに対するこの人の気づきやかるい驚きの類いが、それを認識したときの瞬間の思いとして含まれているのだろうとも読める。「~をかへし」という言い差しにちょっと休符があって次の展開とやや切れている感じがするから油断していたら、「いつのまにか」は「いつのまにか半袖」「いつのまにか初夏」というだけでなく、「いつのまにか光」というニュアンスも含むのだなとあとになってわかる。そうなってくると「いつのまにか」の字余りや「をれば」の妙に理屈っぽい語法による違和感も僕にはとても納得がいく。腕時計が光を反射していることにあるときふいに気づいたその驚きが、このぎこちなさに出ている、というか。

 

同じ歌集から最後にもう二首。

 

珈琲にはふりこみたる角砂糖溶けてゆくわがなづきのうちに
上半身のみうつりゐれば下半身は馬にても山羊にても知る由はなし/栗原寛