平岡直子


ホームとの隙間が大きな駅に住むあなたの家を訪ねていった

竹内亮
「ほんのひとさじ vol.8」(書肆侃侃房:2018年3月刊行)テーマ詠「駅」より


 

中野サンプラザの前で歌人100人に聞いたらそのうち少なくとも85人くらいは歌意を以下のように取るだろう。「あなた」の最寄り駅は電車とホームとの隙間が大きく、おそらくはその駅を通って歌の主人公はその人の家を訪ねた、と。電車とホームの隙間の大きさに仮託された「あなた」に対する主人公の感情の陰影まで読み解いてもらえるかもしれない。
しかし、一読してわかるとおりこの歌の主述関係は混乱を極めている。文法的にはありえる読みの可能性は無数に枝分かれする。「大きな」は隙間のことかもしれないし、駅が大きいのかもしれない。後者、「大きな」が駅のことである場合、「隙間が」がかかるのは「住む」かもしれないし「訪ねていった」かもしれない。「住む」は終止形かもしれないし連体形かもしれない。連体形の場合、駅に住んでいるのは「あなた」かもしれないし、「家」かもしれない。口語文法の弱点が贅沢なまでにふんだんに盛りこまれた一首だともいえる。とくに混乱をまねくのは、日本語の文法よりも短歌の構文が優先されたつくりである。この歌を仮に〈AがBを訪ねていった〉と簡略化すると、「訪ねていった」の主語は完全にA、つまり「ホームの隙間」になる。「訪ねていった」の主語のポジションにあたるものが一文のなかにすでにあるのに、わざわざ外から「私は」を補完しろと要求するのは短歌くらいのものだろう。
それでも、冒頭の85人に含まれるところのわたしが最初に提示した読みを手放す気にはならないのは、その読み方がいちばん気持ちいいからだ。ひとつひとつの言葉の役割に濁りが出ない読み筋をつかむのは、あまりが出ない割り算を解いたときのような小さなカタルシスがある。正解を押すとご褒美がもらえるような仕組み。そこをクリアすると、次には「家を訪ねる」という相聞的な状況にはややそぐわない上句の切り口を楽しむことができるし、この意外性の角度自体は見知ったものでもある。この歌に限らず、口語短歌の文法上の弱点は、読者の快楽を操作することで制御されている場合が多いと思う。
一首と読者のあいだのそういった取り引きによって確立されるひとつの読み筋から、しかし、言葉の揺れは自由である。この歌のいちばんおもしろいところは、文法的にありえるさまざまな可能性の枝分かれが、一首の読み筋にあまり干渉もせず、回収もされないところだ。ひとつの表向きの読み筋がはっきり立てられるからこそそうなるんだと思う。この歌はサブリミナル効果のように、駅に住むあなたや、駅に住む家や、擬人化された隙間や、大きな駅と同サイズの大きな隙間や、奇妙なものをちらちらとみせる。短歌にとってどれだけ人間がつよくても、言葉はその人間と戦わなくていいのだと思わされる。人間に巣食うからみられる夢もある。