染野太朗


奇跡などなにひとつ起こらざりしかな風に若葉が日がなかがやく

志垣澄幸「連想」(「日向通信」別冊、2018年)

 


 

先日に引きつづき志垣澄幸の歌。「連想」は50首からなる。

 

奇跡などなにひとつ起こらなかったなあ、という思いとともに、朝昼夕と一日中風にひるがえって日の光をかえす若葉を見ている。「かな」というのは「詠嘆」と説明されるけれど、力を込めての抒情とか感慨にむせび泣くとかそういう類いのものではなくて、すこしだけ脱力したようになって、しみじみと、ぼんやりとそのことを思っている、ということだと思う。奇跡が起こらなかった、ということを確認して過剰に残念がったりするような、重たさをともなった思いは伝わらず、ただただそうであったという事実を噛みしめている感じがある。そのような感じが読み取れる理由は下の句にある。提示された景はたいへんに明るい。風を受けてひらひらとざわざわと、つやのある葉がかがやきつづけている。ただ、僕にはこの景の輪郭がとても曖昧に見える。樹木の(無数の)葉がざわざわと風に揺れていたらもちろんそれは視覚的に輪郭をとらえにくいが、そういうことではない。三句「起こらざりしかな」あたりから、(主にガの)濁音とアの母音がくりかえされているが、それらを中心に音が関係しあって、下の句の韻律にざらつきと小刻みなリズムが生じている(それが、結句「日がなかがやく」で極まる)。リズミカルでありながら、ちょっとごつごつとして読みにくいような、落ち着かない音の流れだ。このリズムに、若葉が風にこまかく揺れている感じをかさねてもよいのかもしれないが、それよりも全体としては、音の構成の、アクセルとブレーキを同時に踏んでいるようなぎこちなさが目立つ。僕はおそらく、音によって視野を遮られている(もちろん「日がなかがやく」あたりの平仮名のつらなりによってもだろうけれど)。なめらかさを遮られてざらついた音の印象が、光をかえす若葉がうつくしく像を結ぶのを妨げる。でもそれこそがこの歌の眼目であると思う。そのことが「奇跡などなにひとつ起こらざりしかな」という「詠嘆」に複雑な影を与える。起こらざり「し」かな、というその過去の全体が若葉をかがやかせる光によって肯定されながら、しかしそれを眺める眼差しは淡い。そのような過去が肯定されようがされまいが、それとはかかわりなしに、遠い目でそれを見やっている。奇跡とは無縁だった過去を、ただただそこにあらしめる。そのあまりにもおだやかな眼差しが、一首を澄みとおらせる。そして、いままさに目の前にある若葉のひかりを、そのような過去とは別に(あるいは、そのような過去とともに)、いつくしんでいる。

 

若き日の桜花けぶれる陽のなかに画家になる夢みしこともあり/志垣澄幸