八月の蟻がどんなに強そうに見えるとしてもそれは光だ

兵庫ユカ

※兵庫ユカの第一歌集『七月の心臓』(BookPark:2006年)は絶版で、それ以降の歌集は出ておらず、作品にアクセスしづらい状況のため、ちょっと変則的ですがブログから引用させていただきました。トップページはこちら、引用は「短歌3首」(2010-08-29)から。近作や、Twitter上でPDFで配布された作品なども載っていますし、題詠の歌もかなりおもしろいです。
『七月の心臓』全首収録のbotはこちら


 

〈わたしが過剰な自意識と折り合えるのは、歌を詠んでいるときだけなのかもしれません〉と作者自身が歌集『七月の心臓』のあとがきで告白する自意識のつよさは、兵庫ユカの歌を読んでいるかぎりまったく否定できない。「そうでもないのでは」とか「短歌なんて作るような人はみんな似たようなものじゃない?」とかはまちがっても口から出てこない。自分を凝視する視線を頻繁に感じる。しかし、それがありふりれたナルシシズムと手を結ばないのは、眼球をぐるりと内側に向けて自分の内面を掘っていくような表現ではなく、眼球は外側に向けたまま、つねに自分の反射を見つめているようだからだと思う。たとえば〈次の次で降りるめがねと知っていてわたしの前に立っている人〉という歌があって、このように他人からみた自分の像を勝手に断定してしまうのは自意識のつよさといえばそうだし、「めがね」という自分に対する雑な把握もまた自意識のつよさの反転といえばそうだけれど、この歌の飾らない表現には観察する視線が交錯する。他人が降りる駅への観察、他人の降りる駅を観察して学習した人間への観察、他人の降りる駅を観察して学習した人間を観察する人間の心理の観察、そういったものがからみあう瞬間を露出させるおもしろさがある。それは「わたしの前に立つ人」だけでなく「自分の自意識」すらフェアにまっすぐ凝視するからだと思う。兵庫ユカの歌には、短歌に合わせて言葉をそぎ落としはするけれど、短歌に合わせた言葉の屈折はさせない、という印象がある。まっすぐなものほど、短歌のなかではしばしば水中に差しこむ光の屈折のように折れ曲がってみえる。この現象を目撃することが、読み飽きないいちばんの理由かもしれない。
八月の蟻。小さくて黒いもの。動いているもの。水気がなくて、やたら生命力があるもの。その蟻をみつめる視線は掲出歌の場合「どんなに」や「それは」などの指示語によって強調される。この歌の「それは光だ」という結論がいっていることはおそらく「それは(八月の=夏の)光によるものだ」だと思う。蟻そのものが強そうなのではない、蟻は春でも秋でも同じ姿をしているけれど、強い夏の光が黒い蟻の身体に反射するときに「強そう」な印象を与えるのだと。そしてそれは同時に、夏の光が期間限定のものであること、蟻の強さも長い目でみれば一瞬の錯覚のように過ぎてしまうことも予感しているだろう。
しかし、そう読むとこの歌にはひとつ不思議なところがある。「としても」と逆接でつながれているところだ。ここがこの歌の水中の光の屈折部分。仮に一首が「蟻が強そうに見えるのは光によるものだ」という因果関係で結ばれていればなにも不思議はないけれど、この歌は「蟻が強そうに見えるとしても(そうではなく)光なのだ」といっている。しかし、光が強さなのであれば、それを受ける蟻が強そうにみえるのは当然のことで、逆接によって否定する理由がない。論理が潜在的に抱える矛盾に気づく前に一首を終わらせようとするかのように、結句で急速に圧縮がかかる。結果的に蟻そのものの光へ異化とも読める構造は、夏の蟻の強さと儚さをより後押ししているようでもある。
この結句では夏の光そのものと、夏の光をいわば内面化した蟻の二者がひとまとめに「光」とされているのだと思う。それはオリジナルの「蟻」とはちがうものだけど、しかし光が当たってしまった以上、光を剥がして蟻だけを取り出すことはもうできない。このように蟻を捉える視線は、作者がオリジナルの「自分」の追求ではなく、オリジナルとのあいだに当たるさまざまな光も込みでの自分の反射を見つめる視線でもある。