ボンネットに貼りつく無数の虫の死が星座のように広がっている

ユキノ進『冒険者たち』(書肆侃侃房、2018年)

 


 

ユキノ進の歌を読んでいると「センチメンタル」という語を思い出す。『冒険者たち』の特徴のひとつに、勤め人の哀感とその背後にひろがる日本社会の矛盾、罅、むごさ、といったものはもちろんあるのだけれども、勤め人の哀感云々といった語で評せる歌や歌人というのはけっしてすくなくはなくて、しかもその背後にはいま言った「センチメンタル」というのがわりとよく見てとれるから(だからこそ社会の矛盾やむごさがそれとの対比によって目立つわけだが)、そのような語でそれらの歌を評するのは、歌や歌人の細部の特徴を評語によって剥奪する暴力にもなりかねない。例えば次のような歌。

 

支店長ナイスショットと言いながら空を横切る鳥を見ていた
おとこらはしばし世界へ背を向けて駅のホームで立って食うソバ
営業が帰社してオフィスのあちこちで始まる会議、焚火みたいに
「おかげさまで急成長です体重は」池田と夜のカップヌードル

 

それから、必ずしもビジネスシーンの歌とは言えないけれども、

 

飛べるのだおれよりもずっと高くまでローソンのレジの袋でさえも
飛ぶ力を失いながら遠くなる水切りの石を見ればくるしい
なだらかな坂のぼり切れば海が見える少し遅れて波音がする
雨の日だけバスに乗るので車窓から見る風景はいつも濡れてる

 

といった歌も「センチメンタル」といった語を軸にして読めなくはない。

 

ただ、歌集のなかの「極楽鳥の卵を奪う」という連作などはちょっと様子がちがう。

 

心音(エコー)… 船底に耳をあてて聴く百里彼方の鯨が… 吠える
海図にない島が見つかり朝焼けの波濤を越える海鳥の群れ
島は生きる、島は苛立つ 着岸に溜息のような地鳴りが響く
極楽鳥の卵を奪う顛末に手を握るあね、眠いおとうと
幾千のおさない夢を行き交ってとこしえの夜を渡る翼竜

※( )内はルビ

 

こういった歌を含みながら展開する。『冒険者たち』の解説で東直子はこの連作について「本にのめりこみ、ファンタジーの世界を自在に冒険する姉弟が描かれているが、一緒に過ごせないまま成長していく子どもたちへ、そして子どもだった自分へ、さらには様々な課題を乗り越えなければならないすべての人へ、短歌という詩型の冒険譚によってエールを送ろうとしたのではないだろうか。」と言う。僕はこの「ファンタジー」というのに注目する。ユキノの歌を「センチメンタル」「勤め人の…」「社会の…」「悲哀が…」といった語によって縛りつけずに読む補助線のひとつにこの「ファンタジー」というのがあるのかもしれないと思う。同じ連作に、

 

マンションのどこかで揚がるコロッケがまもなく春の岸辺へ向かう
風船の行方を気にしているあいだこの世のことをすこし忘れる
ひさびさに光を浴びて末っ子のマトリョーシカの深呼吸かな

 

という歌があり、あるいはこの連作を離れても、

 

ひとコマずつクレイアニメを撮るようにリハビリの人が登る坂道
バス停のベンチに座る老人が古本のように黙す、残照
外国の地下鉄に乗っているときの表情をして会議を過ごす
ビールの缶が床に転んできらきらと東京メトロでまわる東京

 

といったような歌が見えて、これを「ファンタジー」とまで言えるかどうかはわからないけれど、現実に即していながらも、空想や、あるいは、空想上の小さな物語へと向かう遠い眼差し、といったようなものが感じられ、その「空想」だとか「小さな物語」だとかをやわらかく構成するありようこそが、『冒険者たち』の支柱のひとつになっているのだろうなと思う。

 

……というふうに考えていって、実は僕はビジネスにまつわるユキノの歌からあまり切迫したものを感受していなかったのだと発見する。歌の表向きの表情には哀感云々は読み取れるし、そこに息苦しさを感じもするけれど、どこかその輪郭が淡い、という印象。その「淡さ」が「ファンタジー」というのとかかわっている気がする。いや、この「輪郭の淡さ」ということに関しては、僕の読み手としてのありようも含めて、もっと慎重に検討すべきところなのではあるけれども。

 

今日の一首。ファンタジーの雰囲気をにじませ、しかし決してあたたかくやわらかなそれではなく、最後までどこか怖ろしい一首だった。星座はふつう、うつくしく、そしてまさにファンタジーということを連想させてもよいものであるはず。そして比喩というのは、特に「AのようなB」という直喩においては、「A=B」という構造が前提となり、AとBのあいだの、言葉とその内容の強度に釣り合いが保たれているからこそそれが成り立つはずなのに、そのバランスがどこか崩れていて、ボンネットにつぎつぎにぶち当たった「無数の虫の死」が、「星座のように」という比喩を接続されても、星座よりずっと目立つ(その理由としては、「星座のように」という比喩が、けっして特殊なものではないゆえに比喩としての力が相対的によわい、といったことも挙げられるかもしれない)。「広がっている」という、たっぷりと音数をとった収め方にも、それが広がりつづけていくような感じがあって、どこか怖さを感じる。また、「無数」「広がる」、は「星座」よりも無数の「星」そのもののほうをつよく印象づける。だから、星座がうつくしさやファンタジーやなにかの象徴のほうへ「死」を回収していかない。ロマンチックななにかの広がるような雰囲気は、読み取れたとしてもむしろまったくの〈影〉であって、「死」を〈光〉として際立たせる。この歌がやはりビジネス(と家族)にまつわる連作に置かれているというところには、上に触れた「勤め人の哀感」「社会のむごさ」といったものももちろん読み取るべきだと思うけれども、この一首のもつ冷たさそのものに僕はまず惹かれた。「センチメンタル」をむしろ拒んでいるような歌だと思った。