空白の原稿用紙ひとマスは注射のあとにはりつけたまま

やすたけまり『ミドリツキノワ』(短歌研究社:2011年)


 

注射のあとに腕に貼られるあのシールはいつまで貼っていたらいいのか不安だった。自分の腕に開いたらしい穴がいつふさがるものなのかよくわからない。まちがったタイミングで剥がしたら穴から何かが噴き出してくるのかもしれない。掲出歌でその穴を押さえているのは原稿用紙の空白だ。文字の書かれていない空白のマス目が、紙から噴き出すかもしれないなにかを押さえ込む。その感覚は、文章を、あるいはもちろん短歌を書いたことがある人はみんな経験的に知っているものだと思うけれど、この歌ではそのことを裏側から言っている。原稿用紙の空白に傷口を押さえるシールの作用をみているわけでなく、あくまで注射の跡に原稿用紙のマスが持ち込まれている。この一本のわたしの腕に貼られたシールというただひとつの記憶、を、護符として紙に置くような歌ではなく、無数の空きマスと無数の注射跡との関係がうしろにみえる歌だ。物語よりシステムが前景化する。
質量保存の法則のようだと思う。あっちでマス目が余るとこっちで腕のシールとして出現する。世界のマス目の総数が保たれる。原稿用紙は特殊な使いかたをしないかぎり完成稿であってもたくさんの空きマスが存在すると思うけれど、そのひとつひとつがこうしてリサイクルされるのだとしたら、その余白のゆるされなさにはすごく切羽詰まったものを感じると同時に、あるものでぜんぶどうにかするというごっこ遊びのロマンがある。でも、そういえばこの歌をみて思い出した「質量保存の法則」は中学校で習ったもので、こうして子どものころに学んだことだけを使いまわしながら生きているのはわたしだけじゃないと思うけれど、人は「あるもの」の手数の増減はあっても基本的にはごっこ遊びの延長線上で生きているからこそ、その構成がシンプルだったころを懐古してしまうのかもしれない。おぼえるべきものが少ないころはそれぞれが万能に思えた。質量保存の法則、慣性の法則、右ねじの法則、メンデルの法則、わたしにはとくにこういうものは「法則」と名がつくかぎりはこれで世界の真実が理解できるのだと信じたし、あのときにそう信じてしまったせいで今でもこういう法則を当ててみることでしか一首の歌も理解できない。材料の少ない世界のことはよくわかる。だから、この歌集のごっこ遊びには心を寄せたくなるし、そのなかで、ちゃんと法則がアップデートされている気配がときおりあるこの歌集が妬ましくもなる。
皮膚を刺す針と、原稿用紙に対しての鉛筆が似たようなものだとしたら、マス目と注射跡シールには見た目の類似性だけではなく経験の共有がある。キーボードで文字を打つようになってずっと忘れていたけれど、紙に書く、あるいは書かされるために持つ鉛筆がずいぶん鋭敏なアイテムだったことまで思い出す。いつまで貼っていたらいいのか不安だったあのシールは、数時間も経たずにふと気がつくと剥がれているのが常だった。「はりつけたまま」と詠い終えはしても、その小さな空白を身につけていられるのもそれほど長い時間ではないだろう。皮膚が刺された針をわすれて回復するころに、マス目も書かれなかった文字をわすれて両者は別れるのだろうか。質量保存の法則に則ると、ゴミになって消えたりはしないような気がする。

 

熊は、羊の記憶をもっている。(章「ミドリツキノワ」扉エッセイより)