染野太朗


スズカケと肌が似ていてスズカケじゃない並木道 木を見て歩く

牛尾今日子「バルセロナ遊覧」(「八雁」2018年5月号)

 


 

この一連には、ほかに次のような歌が並ぶ。

 

階段に赤じゅうたんを敷くための留め金がある一段ずつに
オリーブとオリーブオイルとパンが来る 串カツ店のキャベツのように
五日目の切りたくなってきた爪のかたちに掌の肉をへこませる

 

一読してびっくりした。なにかがずれていると思った。その留め金に、というかその「一段ずつ」に、なぜいちいち反応したのか。そもそもなんの階段なのか。オリーブとオリーブオイルとパンを出すような店は決して珍しくないのにどうしてそれを「串カツ店のキャベツのように」来るとわざわざ喩えるのか。なぜわざわざ同じ「飲食店の食べ物」に平行移動して置き換えるのか。切りたいのなら切ればいいのにそれをせず、(ぎゅっと握っているだけだろうけれども)どうしてそんな行為に出るのか。

 

対象になにか違和感だとか詩情だとかを感じたのなら(感じたように表現するのなら)、ふつう短歌でなら、その対象をことばによってきめこまやかに装飾したり視点や心情・体感になんらかの起伏をつけて提示したりする。あるいは、わざわざ「串カツ店のキャベツ」に喩えるといったことをせず、そこにあるものをそのまま、先入観や偏見を注意深く取り除きつつ淡々とフラットに描ききることだってできる。ところが上の歌がやっている凝視や置き換え(比喩)や行為の制限は、装飾や起伏からは遠いものだし、先入観を削いでいく描写というのともすこしちがっている。なにを描いているのか、どういうことを言いたいのかということはあきらかに伝わってくるのに、それを裏で支える理屈や感受性に理解や共感の通路をひらくことができない。感性の出どころがつかめない。

 

……などと思ったあとに、タイトルにやっと気づいた。見落としていた。バルセロナを旅した歌だということが示されていた。

 

そう思って読み直したとき、その理屈にも感受性にも、自分がたやすく理解や共感を示せるということに気づき、またおどろいた。留め金にしかも一段ずつの連なりに目を向けたのは日本では見たことのないような類いの階段だったからだろう(あるいは映画祭のための)、日本で言えば串カツ店のような感じだなと日本の店と対比して捉えたのだろう、爪切りを持たずに旅に出て切りたくなってきたときのその指先の違和感をてのひらの肉に食い込ませることでなだめているのだろう、そのような指の感じはわかる、などと一気に理解や共感がひろがる。初読とはまるで真逆の印象を7首に抱いた。

 

それでやはり、この7首の表現のありようにおどろいた。ことばを装飾的に(というか、いかにも修辞が目立つような形で)扱わず、平易な語彙とシンプルな構成のみで、旅だからこそ発現した(日本とバルセロナを対比したときの)感受の、その理屈・理路に(のみ)精確に光を当てることで、対象を異化してしまうやり方。ものごとを新鮮に見るというのは、対象の特異さを説明的に示したり、対象を飾り立てたり、逆に、先入観を排除したりすることで対象を捉え直したり、ということでなく、その視線を支える理屈・理路をそのまま見せる、ということにおいても成り立つのだと、こう説明するとまるで珍しい技法ではないとわかるけれど、それをまざまざと示してくれるのだった。

 

今日の一首。なぜわざわざ「木を見て歩く」と言うのかわからなかった。いかにも大事そうに見る理由がわからない。あえてそう説明する理由がわからない。だって、木の肌の質感の違いに気づいた四句目までで、木を見ているということはわかるのだから。だから、ここであえてそれを言い直すところに、理解や共感が及ばなかった。ところがそこは「バルセロナ」だった。日本にいてふだんはわざわざ木を見て歩くなどということをしない、ということなのだろう。そう思って一首を眺めたとき、むしろ一首の中心はこの結句にあり、その結果としての四句目までなのだろうとわかる。すると、日本で見知っていたものと違った「並木道」をしっかりと認識し(あるいは直感し)、そこを(いかにも珍しそうに)眺めながら歩く人物も、リアルさをともなって見えてくる。初読のときは、まるでロボットかなにかがみずからのAIを更新・成長させるためにそれをしているような不自然さやぎこちなさがあったのに、旅においてはそのような「不自然」になにげなく身を置いているのが人なのだと(もちろん人によるけれど)、むしろ「自然」なことなのだと、改めて気づく。そっけない口調やふしぎな視点・展開の裏に、いかにも〈人間〉がいる。

 

そしてここで気づくのが、自分が「理解」「共感」をするために、「バルセロナ遊覧」というタイトルに寄りかかりすぎなのではないかということ。もしこのタイトルではなかったら、あるいは、このタイトルでありながらそこが「バルセロナ」でなかったら、僕は結局、「この人、へんだ」と決めつけるしかないのだろうか。そういう感性もあるだろうな、などとあるいは半端にわかったふりでもするのか。この7首の、上に説明したようなある種の凄みを、見い出せないままだったのか。

 

……といったところからはじまって、では自分はこういった先入観や見落としで、これまでどれだけの歌を誤読してきたのだろうと思い、ぞっとする。いや、そもそも誤読ってなんだろう。

 

自分の見落としから始まった読みなので、説明をながく重ねるべき内容なのかわからないし、説明しきれた気もしないんですが、とにかく感じたことをここに示しておきます。