染野太朗


鏡台の位置を変えれば意外なる明るき光の中に貌あり

浦部みどり『匂いむらさき』(角川書店、2018年)

 


 

状況はよくわかる。鏡台を移動した。あるいはその角度を変えた。そしてこれから化粧をするのかなんなのか、とにかくその鏡に自分の顔が映っている、ということ。

 

この歌のおもしろいところのひとつは、まず「位置を変えれば」と「意外なる」だと思う。鏡台の位置の変化や光の見え方・射し方を、物理的な側面からモノとして描写するのではなく、単に「位置を変え」ると説明し、また「意外なる」というふうに主観的な、感想の言葉で説明するから、その「位置」も「意外」さというのも、いくとおりにも想像できてしまう。というかむしろ、想像ができない。位置と光の変化がどのようなものであったのか、具体的にはまったくわからない。また、鏡台の置かれた部屋のようすも描写はされていない。だから、この鏡が映している光が室内灯のものなのか外の光なのかもわからない。とにかく「位置を変え」たことと、それによって映り込んだ、あるいは反射した光が本人にとって「意外なる明るさ」であったことのみが記される。この鏡台の鏡が一枚なのかそれとも三面鏡の類いなのか、そのへんのわからなさも相まって、僕が結局想像したのは、鏡台っぽいなんらかの台を中心にして、光があちこちへと散乱しているようなようす。もちろんそれは、この一首における言葉の構成からすると恣意的にすぎる想像という気もするけれど。抽象画、というのは安易なのだけれども、どうしてもそのような感じをイメージしてしまう。

 

そしてこの歌においてもうひとつおもしろいと思ったのが、「貌あり」と結句で視線が「貌」に固定されるにもかかわらず、光の中で「貌」が再発見されたようにはあまり感じられないということ。もちろん、鏡に映る自分の「貌」の明るさがいつもとは違ったからこそ「意外なる明るき光」という発見ができたのだろうし、歌の鑑賞の段階で、「自分の顔がいつもとは違って見えたんだな」とか「自分の新たな側面、つまり、意外な心的側面をも発見したような気持ちになったんだろうな」とかいうふうに解釈することは可能だけれども(「貌」という漢字は、単に顔面という意味だけでなく、内面をにじませるものとしてもっと広くそれをとらえているのかもしれない)、この歌が描いているのはあくまで、鏡台の位置を変えたら思いがけず鏡の明るさ、あるいは鏡が映す光の感じが違ってしまったということと、そこに「貌」が映っているという事実だけ。「貌あり」という結句によって、最終的に読者の視線は「貌」に固定される。でも、その「貌」は、変化した鏡台の位置や散乱する光のなかで、おどろくほどなんの変化も経ていない。人間のものでありながら、この歌のなかでは、もっともモノとしての側面をあらわにしているように思う。鏡台にも光にも動きがあるのに、「貌」だけはぬっとそこにあらわれて、そのまま固定されてしまう。

 

自分の意外な側面を発見したようでうれしかったのだろうなとか、自分の顔がいつもよりきれいに見えたんだろうな、といったふうに読みを展開することももちろん可能なのだけれども、「意外なる」と言って主観、感想の向かう先が「貌」でなくあくまでも「光」だから、結句で固定されるとはいえ、やはりどこかそれは光の二の次という感じが抜けきらなくて、そのような読みはためらわれてしまったのだった。自分の「貌」に集中しきらない視線のありようが、「光」をよりあざやかにしているように思う。

 

石榴の実太りにふとり細枝に重たすぎるよ己を知らず
庭の梅ひらくと見れば目白(メジロ)来ぬ連絡網でもあるかのごとく/浦部みどり

※( )内はルビ