平岡 直子


草木は怒りもたねば怒りたる人は紅葉のなかに入りゆく

外塚喬『漏告』(角川書店:2007年)


 

シンプルな言葉で構成されているけれど、「紅葉のなか」になんともいえない不穏さがあり、そのなかに入りゆく人の背中をまもなく見失いそうな、その人がまるで先行きのみえない境界をくぐっているかのような緊迫感がある一首。

 

理屈っぽく、警句的なつくりではあるけれど、作者の手持ちの考えの組み合わせでつくられた歌というよりは、歌のほうが理屈を牽引しているように感じた。つまり、作者が「草木とは怒りを持たないものだ」というカードと「怒っている人は紅葉のなかに入っていきがち」というカードを手元に、あるいは潜在的にもともと持っていて、ひとつの光景のもとにその二枚のカードが組み合わされた、という種類の歌ではなく、「紅葉のなかに入りゆく人」の上に瞬発的に理由が増築されていった歌のように思う。
それは、「草木は怒りを持たない」まではまだしも、「怒っている人は紅葉のなかに入っていく」がちょっと唐突で汎用性がなさすぎる、という理由もあるけれど、「草木」や「草木の怒り」などの「ない」ものが先に置かれ、それらに対応する「紅葉」や「人の怒り」などの「ある」ものがあとから表れる、という構造が、歌が下からつくられたことを物語るからでもある。
人が紅葉のなかに入っていく。なぜなら、その人は怒っているからだ。なぜなら、紅葉は草木だからで、その人が草木のなかに入っていくのは、草木は怒りをもたないからだ、といった順番で因果関係が組み立てられ、「怒っているから、怒りのない環境を欲する」という理屈は最後に結果的に発生したものにみえる。到達地点から一首がはじまり、出発地点に至る、逆再生のような一首である。
あり得たかもしれない岐路を作者の後ろ手に隠して、それしか道がなかったかのように通してしまう。逆再生は使いようによっては危険なテクニックだと思う。長く喋るとぼろが出るけど、短歌の長さなら、読み手は順を追った再生を読まされているように騙されさえするだろう。しかし、この歌に関しては結論ありきで歌が逆算されたという印象はなく、定型をストッパーにして後退できるところまで後退しただけのようにみえるし、そこがいいところだと思う。逆再生はただ一首の見通しを悪くしているだけだ。
この見通しの悪さは、「草木」から取り出される「紅葉」の色の烈しさとあいまって、怒る人の心中を分け入るようでもある。草木が内面に怒りを持たないとしても、怒りを象形しないわけではない。

 

かなしい歌詞に怒れるきみは紅葉のなかへあたしをつかんでゆきぬ/雪舟えま