きちんと育てられたんやねと君は言ふ私の闇に触れてゐるのに

勺禰子『月に射されたままのからだで』(六花書林、2017年)

 


 

2017年7月刊行のこの歌集を今頃読んで、ああおもしろい歌集だなあ、読むのが遅かったなあ、と思ったのだが、たった一年前に出た歌集に対して「今頃」「遅かった」という感想をもった自分はどう考えてもおかしい。

 

今日の一首、そうむずかしい内容ではない。表現も易しく、わかりやすい構成だ。たとえば箸の持ち方が「きちんと」していて、それに対して「きちんと育てられたんやね」と言われる。でもその「きちんと箸が持てる」という背景には、たとえば、父親のやたらときびしく神経質な躾がかかわっているのかもしれない。箸の持ち方に限らず、そのような躾をとおして、父親と同じように自分も神経質な性格になっていたり、他人に対してついきびしく接してしまったりするのかもしれない。どのように育てられたか(育てられなかったか)というのは、〈社会〉を生きていくときに人の思いや行動を思いのほか限定する(とも本当は言い切れないのだけれど)。それで、そのような自分の性質・性格によって、誰よりもまず自分が生きづらさを感じているのかもしれない。それを「闇」と表現している……といったように読むことができると思う。「闇に触れる」という表現はとてもありふれていて、漠としていて、だからこそ、「きちんと育てられた」ということがこの人物のあらゆる側面に影響している、この人物がそのことを根深いかたちで意識しながら生きている、といったことを読み取りやすいと思う。

 

あるいは単に、きちんと育てられたからこその言動や考え方ではないのに、「君」にそのように言われて、そのように言う「君」との断絶を感じているのか。それとも、自分が「闇」と思っていた部分(欠点とか弱点とか)をまったく新しい観点でとらえる「君」に驚いているのか。ただ、「きちんと育てられたんやね」と、自分を再発見するような言葉を投げかけたられたにもかかわらず、「君」のその認識には乗っからず、あくまでもそれを「闇」として、しかもどこか自明の、不変のそれとしてとらえているところには、「わたしはわたし、あなたはあなた」といったような線引きも見えるようでおもしろい。

 

「きちんと育てられた」は何を指して言っているのだろう、そういうことを言う(言える)「君」との関係ってどんなものなのだろう、なぜそれを「闇」と思っているのだろう、そもそも「闇」ってどういう性質を指して言っているのだろう、と考えれば考えるほど、具体的にはなにひとつわからなくなるのだけれども、きっとこの歌は読者の(あるいは読者の身近な人の)過去や読者にとっての「闇」に探りを入れてくるようなところがあると思う。

 

台風のちかづくといふまひる間の日傘しなるわしなるでしかし
夕方の急行に乗る駅ナカで逢ひ飲みかすかに触れあふために
「わたしそこはこだはつてないから」と言ふときのこだはりをこそ恐怖と思へ

 

三首目、「わたしそこはこだはつてないから」とあくまでも言うその言葉自体に「こだわっていない」ということのこだわりを感じているのか、それともそのような発言をする人物に、ある種のカタさのようなものを感じているのか。相手を俯瞰で、分析的に見る感じがある。字余りが目立つとは言え語の構成がシンプルで、内容はすんなりと読めるけれど、理に寄ったところから作られた歌だな、と思う。一、二首目は、特に下の句のリズムに小気味よさがあるけれども、これもどこか、俯瞰でとらえてこそのリズムという感じがする。「しなるわしなるでしかし」は、語の構成意識が働いてこその整然とした音の連なりだと思うし、「逢ひ飲みかすか触れあふ」は、内容としても、あきらかにその逢いを俯瞰でとらえている表現だ。

 

向かひあひ食めばお箸の持ち方を君はしづかに直してくれる

 

上に書いたように、箸の例をなんとなく思いながら今日の一首を読んだのだけれども、歌集を先に進めていったらこの歌があってのけぞった。箸の例はあくまで「例」です。

 

虫すだく夜は更けゆく手も足も記憶でできてゐると思ふまで

 

「虫の声が響いている夜に、それをじっとして聞いていたら、感覚が聴覚ばかりになってしまって、夜(の闇)に自分の手足が同化してしまった、溶けてしまったように感じた、自分のものでないように感じられた」というふうに読んだ。身体の感覚ではなくて、かろうじてこれまでの「記憶」によってのみ「これは「手」のはずだ」「これは「足」のはずだ」と認識できている、というような。この読みに自信はないのだけれども。でも、だとしたらこの一首も、モノゴトを理でとらえた歌として特徴的だと思う。理が目立つ。「記憶でできてゐると思ふ」というのは、体感を、あくまでもアタマでとらえ直した認識、として読める。

 

四分の遅延くらゐでざわめいて足音だけがちらばつてゆく
パン屋さんの前までやつてきて気づく 食べたかつたのはおにぎり

 

一首目、四分の遅延「くらゐ」で、というのは、その場の体感でなく、理屈によって客観的に「四分」という時間をとらえなければ出てこない発想だと思う。この一首の場面はどうやら駅なのだけれども、そこに一人の利用者としていたら、「四分」で苛立ったり不安がったりするというのも、人の感覚として決しておかしなことではない。二首目、桃であれ豆腐であれユッケであれ、「食べたかつた」ものとしては他になんだってあり得るはずなのに、主食というカテゴリーで対をなすような米、つまり「おにぎり」を思い出すところに、上でくりかえし述べた「理」の部分を感じる。支離滅裂な発想や、理屈では説明しきれない身体の側の働きや欲求はこの歌からは隔てられているように思う。「パン/ごはん」というシンプルで無理のない二項対立だけがそこにある。

 

あと三首だけ引いて終わります。

 

片足の鳥居の脇のアパートの下着揺らめく205号室
大川の水のちからを受けとめて橋には橋のうごきありつつ
奈良がすき奈良はきらひと言へぬままなんとなく少しづつ慣れるといふこと/勺禰子