自販機を見つけるまでは話さない獣みたいな食事のあとで

金山仁美「カラーパレット」(「京大短歌」24号:2018年)


 

自販機はひと昔前からなにかと話しかけてくるタイプの機械だったけど、最近はとくにロボットっぽさを増している。このところ、タッチパネル式のデジタル自販機(?)をよくみるようになった。飲料のボトルや缶が見本として並んでいる旧タイプではなく、前面がフルに液晶画面になっていて、そこに飲料の画像が一覧表示されているタイプのもの。この新タイプの自販機は前に立つと「あなたにおすすめの飲み物」を点滅させてくる。立ち姿から何かを読みとって、年齢や性別を分析した結果おすすめを選んでいるとのことなのだけど、あれって本当なのだろうか。みんなに同じものをすすめているんでしょ? と聞きたくなるのだけど、それを聞きたくなる時点でわたしは相手になにか人格のようなものを認めているのだろうな、という気もする。
掲出歌の〈獣みたいな食事〉からはいくつかの「獣っぽさ」の可能性が思い浮かぶ。がつがつした食べ方、肉やあるいはあまり細やかな調理がされていない食材、「とにかく生きるための養分を摂る」的なコンセプト……どのように「獣」的なのかをろくに説明しないところもなんか獣っぽくていいんだけど、とにかくいずれにせよここで行われた獣っぽい食事とは、文化的な態度からはほど遠い、原始的な欲望を充たす食事なのだろう。それは自販機が象徴する文明の進化とは対極にあるものだ。
人間にはどこか、自分たちは動物から発生して機械に至る途上にある存在だ、という自意識があるように思う。動物と機械はいろいろな意味で対照的な存在だけど、人間からみると非言語的な法則性によって動いているという点では同じもので、人が動物の行動に言語的なものを見出したり、機械にわざわざ言語を話させたりするのは、それらへのおそれやコンプレックスによるのではないだろうか。掲出歌はなんだかそのへんを刺激してくる歌で、食事によって〈獣〉という動物に逆行してしまった以上、逆側の〈自販機〉という機械に触れてその中間の自分(たち)の相対的な位置を確認するまでは、〈話さない〉、人間の言語から締め出されている。

 

この歌はひとつの「持続」を扱った歌でもある。食事時の獣っぽさは、自販機に出会うまでは持続される。正確には歌にはそうは書かれていないのだけど、「おなかが満ちたら今度は喉が渇いたので、とにかく水分を摂るまでは声を発する余裕はない」とも読める性急さも、自販機の具体的なあてがなさそうなところ、野生の勘で水場をみつけようとしているかのようなワイルドな雰囲気も、獣モードの維持を覗わせる。
そして、持続、はこの連作のテーマであるようにも感じた。

それはまだ絵画になる前の〈持続〉(デュレー)信号のない横断歩道
咲くことを待つ花のかお留め金が壊れた百葉箱に降りくる

連作タイトルの「カラーパレット」を鑑みても一首目の「信号」はおそらく風景の色味としての意味がつよく、彩色されていない横断歩道のモノクロを「絵画以前」のものであるととらえる。おもしろいのはそれが瞬間的なものではなく、「持続」として引き伸ばされることで現実の風景とつじつまが合うところだ。
二首目の「花」は、咲くことを待っているということはつぼみだろうか。百葉箱に降るときには枝を離れていてもう咲く可能性はないはずだけど、咲くことを待つ顔をまだしているという「持続」に虚を突かれる。留め金くらい壊れていても用途的には支障がなさそうな百葉箱にも象徴されているように、大きな時間は流れていくのだ。そのなかで、壊れたまま、未完のまま、勘違いしたまま、そういった小さな持続が一首に生じさせる時差がおもしろい。