噴水を創りし人のはるかなる水きららかに巡りてゐたり

中村敬子「幸ひ人」(「灯船」第10号、2018年)

 


 

「幸ひ人」は24首からなる。この一連には、

 

カーテンを薄物にして捜したり目を逸らしあふ日々の答へを
人偏をとりて伴侶は半侶なり辞書になき語はぼんやりとある
モンステラの気根さりりと切り落とし別居婚とふ婚に暮らせり

 

といった歌も並んでいるのだが、今日話題にしたいのは、そのような状況とかかわるのかかかわらないのか、この連作をつらぬく、明るい不穏、といったようなふしぎな雰囲気について。

 

卓上のBURITAに朝のひかりさし生ぬるきまま浄水を飲む
きのふまで莟であつた黄の薔薇の花とその影ひらきてゐたり
草臥れた初夏のパンジー抜きされば花なき鉢はひかりを浴びぬ

 

「ひかり」や「黄」の明るさが目立つ歌だ。けれどもそこにごくなめらかに挿しはさまれる「生ぬるき」「その影」「抜きされば」「花なき鉢」はどうだろう。BURITA(ポット型の浄水器、のはず)でわざわざ浄水をつくって飲むことに対するかすかな自嘲、莟がひらくところによろこびを見出してもよいはずなのにそこに同時に見てしまう不穏、ひかりを浴びているのがあくまでも花のない、空虚な鉢……というふうに読めばそれらしく思えるのだけれども、これらの歌の「生ぬるき」「その影」「抜きされば」「花なき鉢」が、はっきりとそのように読めるほどに自嘲や不穏や空虚を誘い込んでいるとは断定しにくい。そのように読むのは恣意の勝った読み過ぎのような気もする。おそらく、「生ぬるき」「その影」「抜きされば」「花なき鉢」に伴わせてもよいはずのわずかな負のイメージと拮抗するだけの明るさ(単純なところで言えば、たとえば「朝のひかり」「浄水」の清潔な感じや「BURITA」の価値中立的な感じ)が、一首にわかりやすい存在感をもって配されているというところにその理由があるのだと思う。一首における語の構成上、「生ぬるきまま」という措辞はたとえば「かがやけるまま」などという措辞と単純に置き換え可能であり、その、置き換え可能、ということがむしろ「生ぬるき」の毒を薄めていて、「生ぬるき」に過剰な価値を与えていない、というか。要は淡々としたスケッチだということなのだろうけれども。この連作には、

 

メレンゲの菓子焼き上がりゆたかなる午後オーブンの熱はさめゆく

 

という一首もあるが、この「さめゆく」も、さびしさやむなしさを引き連れて来てよさそうなものを、「ゆたかなる午後」を覆ってしまうほどの力はもたないように思う。オーブンの熱の冷めていくことが、日常生活においてそれほど、さびしさその他を連想させるものではない、というのも大きい。

 

……という読み方自体僕の恣意的なやり方なのかもしれない。

 

恣意的ということを自覚しつつそれでもわりと恣意的に読む今日の一首。噴水がある。目の前のその噴水を創った人に思いを馳せる。その噴水が、噴水(とその池)の内部において水を循環させるタイプのものであるならば、その構造物が完成してそこに水が流し込まれたときから、その水はずっとそこを巡りつづけているということになる(もちろん正確には、物理的にそんなことはあり得ないですが)。あるいは「創」という字があてられているから、噴水というもの一般が、それが発明されたときにまで遡って意識されているかもしれない。

 

僕はこの「はるかなる」を、ちょっと怖ろしいな、と思った。噴水が完成した(あるいは発明された)ときまで遡って想像されるとき、そこをずっと巡っているということに、僕はおぞましさを感じてしまったのである。だってその水はそこから逃れられないのだから。上に見たほかの歌の例とはちがって、「はるかなる」は負のイメージを伴いにくい。それに「きららかに」とまで言っている。輝いている。でも、輝きながらも、そこを出られないわけだ。明るいのになんだか不穏な感じがした。

 

それで、恣意的ということを自覚しつつ、などと言って予防線を張って片付けてしまったけれど、問題は、僕のこの読みはつまりどこから導かれているのかということ。連作のほかの歌とのかかわりでそのようにイメージしたのか。同じところを巡りつづけるものに対する僕の個人的な思い入れか。あるいはこの一首そのものの語の構造によるのか。恣意ってじゃあいったいなんなのか。逆に、純粋な恣意なんてありうるのか。

 

決めたんだ、決めたのだよと走りだすあなたの連れてゆくあきあかね/中村敬子