雄叫びに似て冬の陽が落ちてゆくしばし炎の髪となる森

金井秋彦『掌のごとき雲』(1978年)
※引用は『金井秋彦歌集』(砂子屋書房:2013年)より


 

ある感情表現+「に似て」ではじまる歌ということで、連想したのはこの歌。

ほほゑみに肖てはるかなれ霜月の火事のなかなるピアノ一台/塚本邦雄

ちなみに作者の金井秋彦は塚本邦雄とは同年代(塚本の三歳下)。はじまり方が似ているだけでなく、季節が冬であることや、火が燃えるイメージが含まれることなど共通点も多い二首だけど、手触りはぜんぜん違うといえば違う。塚本の歌に感じるのは、言葉を自分に寄せつけず、押しやろう押しやろうとする作者の手の力。その反発が作用して読者と歌とのあいだにも空間が確保される感のある塚本の歌に対して、金井の歌は言葉が素直に近くまで伸びてくる、雪崩れこんでくるという感じがする。それは「ほほゑみ」という抑制vs「雄叫び」という伸びやかさにも端的にあらわれているかもしれない。
夕焼けがすごい。ひとことで言えばそういう歌だけれど、その夕焼けはすでに歌のなかで原形をとどめておらず、夕焼けをめぐるイメージの華やかな展開がおもしろい。
上句では落日の様子が雄叫びにたとえられている。この力の入った比喩は、雄叫びという目にみえないものを扱っているにもかかわらず描画的な発想を経由したアプローチのように感じられる。意味的な共通項を括りださせるのではなく、あるいはまったくナンセンスな組み合わせの二物衝突というわけでもなく、雄叫びと落日は筆圧によって似るのだと思う。それぞれを描画した場合の筆のつよさや勢いが反芻され、重ねられている。
激しく、そしてある程度の時間的な尾を引く「雄叫び」は、夕日の炎上にひととき酸素を吹きこむ。やがて太陽は落ちきって、雄叫びはフェードアウトしていくはずだけど、その失速を待つ隙もなく一首には次の力強い修辞が差しこまれる。炎の髪となる森。森が髪にたとえられ、さらに髪が炎にたとえられているという飛距離のながい比喩だけれど、なにしろ炎なので、言葉の上を順番に火が燃えうつっていったかのような不思議な説得力がある。
ところで「髪」は頭に生えているもので、頭は胴体に生えているものであるはずだけど、話はそういう方向には飛び火せず、そういえば「雄叫び」の発生元も書かれていないままなのだった。身体性は断片的に、奇妙なスケールであらわれるだけだ。

 

水際に草昏れのこり灯ともりし電柱に昆蟲が狂いはじめる/金井秋彦
向日葵は齒車の如くものなべて逆光のなかの寂しき時間

灯りに虫がむらがるのは普通の光景のはずなのに、上句から草の匂いが流れてくるせいか、その電柱は樹じゃないし樹液も出ないよ、と虫に言いたくなる。電柱があぶない電波でも発しているような、昆虫が昆虫としての本能を揺さぶられているような妖しい表情のある一首目。向日葵が歯車のようだという見立てが文句なしにかっこいい二首目は、結句の「時間」があるからか、この歯車は具体的には時計のなかの歯車であるかのように思えてくる。大小さまざまの向日葵が噛み合ってこの世の時間を動かしているのだ。向日葵が枯れたらどうなるんだろう。「寂しき時間」はかなり有限なのかもしれない。
掲出歌を冒頭の塚本邦雄の歌ともういちど比較すると、塚本の歌の炎は人災である「火事」としてあらわれ、そのなかに残されるのも人工物である「ピアノ」なのに対し、金井の歌の炎は夕焼けという自然現象で、火が燃えうつるのも「森」である。あるいはここに挙げた「昆虫」や、「向日葵」、金井の歌にときどきあらわれる美しいディストピアはつねに自然物を入り口にしているように思う。
自然界に発見するディストピアは、異郷でありつつ、自分の身体と地続きなところに奇妙さがある。掲出歌の「炎」は長い目でみればやはり作者の髪を燃やす炎なのだと思うけれど、それにはかなりの長い目が必要だ。